私たちはこの一年間、孤独を遠ざけ、また孤独を友にする新たな生活を模索しています。こころが喜ぶ日常にするにはどうすればよいのでしょう。そこで、こころとは一体何かということを倉澤先生におたづねすると、心という文字は詩歌においては、『感動』を意味する。しかし、喜怒哀楽の感動ではなく、超越的な『天地の心』というべきものと考えられている。これが、中世の芸論である」とおっしゃられた。この本を通し、残らなければならない「こころ」というものを知ることができたら孤独は友といえます。そして、その場合はもう孤独とは言いません、芸術を友にしたといえるように思うのです。
私たちはこの1年間、孤独を遠ざけ、また孤独を友にする新たな生活を模索しています。こころが喜ぶ日常にするにはどうすればよいのでしょう。そこで、こころとは一体何かということを倉澤先生におたづねすると、心という文字は詩歌においては、『感動』を意味する。しかし、喜怒哀楽の感動ではなく、超越的な『天地の心』というべきものと考えられている。これが、中世の芸論である」とおっしゃられた。この本を通し、残らなければならない「こころ」というものを知ることができたら孤独は友といえます。そして、その場合はもう孤独とは言いません、芸術を友にしたといえるように思うのです。
令和二年度、猿猴庵没後一九十年に、名古屋に生まれた名古屋むすめかぶき(一九八三創立)が猿猴庵の書き残した女能の演目「哥宗論」をおそらく猿猴庵没後はじめて上演いたしました。一九〇年間、女性での「哥宗論」の上演はありませんでした。
互いの宗旨の違いを争うことは、互いの性別への無理解だったり、違いを認め合えないことを皮肉に書いています。お芝居の最後には、中世からの歌声が「へだてはあらじ」と二人が謡い、またその声が遥か彼方から聞こえてくると言う感覚がしてきます。
コロナ禍に生きていることをともに「へだてなく」生きる、という宗論最後の言葉にさまざま気づくことになりました。
令和2年度、猿猴庵没後190年に、名古屋に生まれた名古屋むすめかぶき(1983創立)が猿猴庵の書き残した女能の演目「哥宗論」をおそらく猿猴庵没後はじめて上演いたしました。190年間、女性での「哥宗論」の上演はありませんでした。
互いの宗旨の違いを争うことは、互いの性別への無理解だったり、違いを認め合えないことを皮肉に書いています。お芝居の最後には、中世からの歌声が「へだてはあらじ」と二人が謡い、またその声が遥か彼方から聞こえてくると言う感覚がしてきます。
コロナ禍に生きていることをともに「へだてなく」生きる、という宗論最後の言葉にさまざま気づくことになりました。
江戸時代、名古屋は狂言和泉流の本拠地であった。ところが、明治維新の廃藩置県によって収入源を失い、同流有力役者の三人が次々に他界するという不幸が重なった。さらに、元賀のあとを継いだ元清が東京へ移住することとなり、名古屋の狂言界は存続が危ぶまれる事態となった。そのような状況下の一八八四年、物故三師追悼会が催され、能六番と狂言十四番が上演された。 その機運が組織として実を結んだのが狂言共同社である。一八九一年に結成された。狂言共同社の活動は、結成後約一三〇年を経た現在も脈々と受け継がれており、和泉流の本流である山脇派の伝統を守り続けているところに大きな功績があると評価できる。
江戸時代、名古屋は狂言和泉流の本拠地であった。ところが、明治維新の廃藩置県によって収入源を失い、同流有力役者の3人が次々に他界するという不幸が重なった。さらに、元賀のあとを継いだ元清が東京へ移住することとなり、名古屋の狂言界は存続が危ぶまれる事態となった。そのような状況下の1884年、物故三師追悼会が催され、能六番と狂言十四番が上演された。 その機運が組織として実を結んだのが狂言共同社である。1891年に結成された。狂言共同社の活動は、結成後約130年を経た現在も脈々と受け継がれており、和泉流の本流である山脇派の伝統を守り続けているところに大きな功績があると評価できる。
初秋の月の光は、如来の光明と感じます。
能舞台、橋がかりにある三本の小松は参道の松並木を象徴しているといえましょう。この参道を月が照らした。
面がふわりと宙に浮くようにあらわれます。
「忘れて年をへしものを(随分年月が経ったものだ)」名月の下で、優雅に舞をまい、夜明けと共に「月の都に入りたもう」と姿はおぼろに消えていきます。
光明の月の光を見いるうち、あたり松や杉の葉末の輪郭に囲われるように、そこ、まさに山に招き入れられている思いに引き込まれていました。
幼い頃、長野の田舎で月明かりをたよりに歩いた道、お稽古を終えた深夜、月明かりが照らしてくれた道、厳かな心持ちを思い出します。今に動じていく自分を引き留めてくれた昨晩でした。
市川櫻香