狂言共同社の功績

 江戸時代、名古屋は狂言和泉流の本拠地であった。ところが、明治維新の廃藩置県によって収入源を失ったうえ、家元の山脇元賀はじめ同流有力役者の合わせて三人が次々に他界するという不幸が重なった。さらに、元賀のあとを継いだ元清が東京へ移住することとなり、名古屋の狂言界は存続が危ぶまれる事態となった。
 そのような状況下の一八八四年、物故三師追悼会が催され、能六番と狂言十四番が上演された。盛大な能・狂言の会を開催できたことは、残された素人弟子たちが協力して狂言を継承していく機運を促した。その機運が組織として実を結んだのが狂言共同社である。角淵宣、井上菊次郎、伊勢門水、河村鍵三郎、三橋正太郎、山本久平、田中庄太郎の七名が設立メンバーとなって、一八九一年に結成された。
 彼らは、維新後に師匠の手から離れた装束や面・道具類を回収するとともに、各自が所有していた物を持ち寄って共同管理とした。出演交渉の窓口を一本化し、演目や配役は合議のうえで決めた。出演料もすべて会計担当が管理し、配当も合議によって行われた。つまり、明治中期という時点において、先進的な民主運営が行われていたわけである。
 狂言共同社の活動は、結成後約一三〇年を経た現在も脈々と受け継がれており、和泉流の本流である山脇派の伝統を守り続けているところに大きな功績があると評価できる。

林 和利 / 文学博士・能楽研究家