猿猴庵の芝居好き

猿猴庵をご存知だろうか。
本名は高力種信、時は江戸時代、尾張藩のサムライだ。猿猴庵はそのペンネーム。
高力家といえば譜代の名家、その先祖は武勇で知られた。
藩の中で権力を欲しいままにしていても不思議はない家柄だったが、惜しいことに子宝に恵まれず、養子縁組の度に家禄を減らした。猿猴庵はその七代目。失地回復に努めるどころか、政治にはとんと興味を示さず、人生の意義を「記録」に見出した。
城下の出来事を記録した日記が42年間分、祭り・開帳・見世物など、城下を涌かせた出来事に取材した記録絵本が100冊以上、というから驚きだ。さながら江戸時代のジャーナリスト。その作品の詳細さたるや、当時としては比肩するものが無いほど見事で、名古屋が誇るべき偉才なのだ!
その猿猴庵が、76歳で世を去ったのが天保2年(1831)、今年は没後190年にあたる。
猿猴庵が記録したおかげで伝わる出来事が多々あるが、今回は『女謡曲採要集』という記録絵本をもとに、珍しい「女能」が再現される。

ご禁制「女能」は大当たり

文化3年(1806)の冬、月の名も神楽月(陰暦十月)、大須清寿院の境内に「風流女舞曲」の興行を知らせる看板がかかった。実はこれは女性の演ずる「女能」のこと。伊勢で初めて興行され、京都で流行していた。それが巡業してきたのだが、名古屋では女能が禁じられていたため、ちゃっかり看板だけを塗り替えてのお披露目となった。

いまだ見ず候ほどに女能一見せまやとおして木戸口  

この女能を演じたのは、京都祇園の売れっ子芸子、井上松枝・井上竹野・井上梅野の三人を中心とする、すべて女性の一座とあって、上演前から物見高い名古屋っ子の気を大いに引いた。男性ばかりで演ずるのが決まり事のこの世界、逆転の面白さも加わって、当日の木戸口にはどっと観客が押し寄せた。
 女能の上演は、まず口上から始まった。続いて前芸「もみけし人形」。手の中で人形を消してみせる手品。次からが本番で、通常の能舞台よろしく、「翁」で幕が開く。あでやかな梅野の舞の後ろで囃すのは、三挺鼓こそ女性だが、笛と太鼓は男性。看板に偽りありだが、これもご愛敬。この後、「高砂」他の能番組や狂言がいくつも上演され、松枝による祝言の舞で、めでたく舞い納めとなった。
 ちなみに木戸銭は通しで「百四文」。今の三千円ほどであろうか。能の通であった猿猴庵は、安いと評している。