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朗読者:天野鎭雄
4.秀吉と三藐院
近衛信尹は、永禄八年(一五六五)の生れ。はじめ信基といった。
父は、関白太政大臣近衛前久(竜山)であった。天正八年、内大臣に任ぜられた。同十年信輔と改名。同十三年、二十一歳にして右大臣、ついで左大臣となった。ところが、同年内大臣となった豊臣秀吉は、織田信長が右大臣で弑された凶例に鑑み、右大臣をとびこえて左大臣に任ぜられることを望んだ。そこで左大臣信輔は、自分が関白に任ぜられるよう運動したが、時の関白二条昭実はこれを拒否した。一方秀吉は、関白職をめぐっての信輔と昭実との確執を知ると、自らが関白となることを求めた。しかるに関白は、五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)から任ぜられるのが、先例であった。そこで秀吉は、形式上、近衛家の養子となり、そのさい、関白職はやがて信輔に譲ることを約した。信輔は不満であったが、認めざるを得なかった。こうして秀吉は関白に任ぜられたのであるが、その職を信輔に譲るとの約束は結局果されず、天正十九年、豊臣秀次が関白となるに及んで、信輔は左大臣を辞した。信輔は、秀吉のために栄進の道をふさがれた形になったのである。
秀吉の存在は、その後も、信輔の上に大きな影を落した。文禄三年四月十一日、彼は秀吉の上奏によって勅勘の身となり、薩摩に流されたのである。罪せられた最大の理由としては、ふつう、彼が左大臣辞任の後、勅許をまたず二度にわたって名護屋に赴き、朝鮮戦役への従軍を望んだことが挙げられているが、真相は明らかでない。文禄四年鹿児島に移され、翌慶長元年、赦されて帰洛した。帰洛後、信尹と改名。同六年左大臣に還任。同十年にいたって、はじめて関白に任ぜられた。勿論、この時、秀吉は既にこの世の人ではなかった。同十一年関白を辞し、同十九年、五十歳で、その波瀾に富んだ生涯を閉じた。
日本の歴史において、公家と武家とは、政治的、文化的、その他いろいろな意味でいつも対立関係にあった。その関係のあり様は時代により様々であるが、桃山時代における両者の関係がどんなであったかは、三藐院の生涯の上におちた秀吉の影の大きさによって、如実に物語られているといえよう。
飜って考えてみると、三藐院の不羇放胆な資性は、伝統的な公家という枠には、はまりきれなかった。その意味で、彼は公家らしからぬ公家、「破格」の公家であった。他方、秀吉も、典型的武将というイメージからは、餘程かけ離れた人物で、いわば、「格外」の武家であった。書は人なりという如く、二人の書は、両人のそういう性格をそれぞれにはっきりと示している。「破格の公家」の書と「格外の武家」の書、こういう対比も、また一興というべきであろう。
(注『三藐院記』よりの引用は『資料纂集』による。)
朗読者
天野鎭雄
俳優/1936年愛知生まれ。愛知県NHK名古屋放送劇団、文学座研究生、「山本安英の会」など経て、劇団「劇座」代表。ラジオのパーソナリティーを務め「アマチン」の愛称で親しまれる。愛知県芸術文化選奨賞等受賞。 ―桃山文化を、細かく深く見た言葉を語るわけですが、自由はつらつでいいのではないかと、思い読んでいます。
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび