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朗読者:佐藤友彦
44.秀吉と利休のわびへの志向
右に見たように、秀吉は、北野の松原にしつらえられた数多の茶屋の中でも、特に、一化と丿貫の茶屋に心をとめた。そしてこの二つの茶屋の亭主は、どちらも典型的なわび者であり、二人のはたらきは、わびのはたらきであった。秀吉が、このように、わび者のわびのはたらきを格別に賞美したについて、人は往々、利休の秀吉への影響の大きさを語る。つまり、秀吉は、利休からの感化・薫陶によって、わびの面白さにめざめ、大茶湯でもそのような振舞をするに至った、というのである。果してそうであろうか。
世に普請狂といわれる程に普請好きであった秀吉は、もちろん単に普請好きからだけでなく政治的ないし戦略的理由もあって、大城を次々と築いていった。彼の築く城の壮大・華麗・豪奢な様は、異国の宣教師をも瞠目させるほどのものであったが、城内にはまた、壮麗・豪奢とは対照的な、野趣の横溢した、鄙びた風情の一郭がしつらえられるのが常であった。山里と呼ばれた郭がそれである(佐賀県重要文化財 肥前名護屋城図屏風 第三・四扇)。
また、秀吉の最後の城である木幡伏見城には、学問所と呼ばれる一郭があった。そこは、「杜牧が阿房宮賦を作った如き筆力でなくては、とても形容できない」と西笑承兌をして嘆かせたほど華麗な御殿もあったけれども、全体としては、山や樹林の多い、深山の如き、野趣に富んだところであった。その中に点在する草堂や茅屋も、その名の示す如く、素朴な、鄙びた風情のものであったと思われる(学問所については、31節参照)。
このように、秀吉の築く壮大・華麗な城中に、野趣に富み素朴で鄙びた風情の山里ないし学問所の如き郭のあったことについても、人は往々、これを、秀吉が利休のわびに感化された結果と説明したがる。
たしかに、利休の秀吉への影響は大きかった。秀吉が、利休賜死の翌年すなわち天正二十年(文禄元年)五月六日付自筆消息に「きのふりきうのちやにて御ぜんもあがりおもしろくめでたく候…」と書き、同十二月十一日付の自筆消息(豊臣秀吉筆 前田玄以あて消息)に、「ふしみのふしんの事、りきうにこのませ候て、ねんごろに申しつけたく候」と書いていることは、秀吉への利休の感化の大きさを、はっきりと示している。だが、北野大茶湯に見られる如き、また山里の郭ないし学問所に見られる如き、秀吉のわびへの志向を、全て利休に由来するものとするのは、やはり牽強のそしりを免れないであろう。
では、秀吉のわびへの志向は、どのようにして形成されたのであるか。私は、秀吉には、初めから―利休の影響を受ける前から―一種のわびへの志向があった、それが利休の影響等によって、いっそう伸長した(結局、利休と同じレベルでのわびには至らなかったにせよ)、と考えたい。とすれば、秀吉に初めからあったわびへの志向とは、いかなるものであったか。私は、いわゆる「瓜畑遊び」が、その問を解く糸口を与えてくれるように思う。
甫庵『大閤記』によると、秀吉は、文禄二年六月(『大閤記』に文禄三年とあるのは二年の誤り)、名護屋在陣のつれづれに、「瓜畑遊び」なるものを催した。それは、同書によれば、「瓜畑などひろく作りなしたる所におゐて、瓜屋、旅籠屋を、いかにも麁相にいとなみ、瓜あき人のまねをなされつゝ、各をも慰め、又御心をも慰み給ひつゝ、長陣の労を補ひ給し」というもので、秀吉は、柿色のかたびらに、藁の腰蓑をつけ、黒頭巾をかぶり、菅笠を肩にかける、といういでたちで、「味よしの瓜めされ候へ、召され候へ」と呼んで歩いた。諸大名も蕢(一種の籠)売り、漬物瓜売り、遍参僧、高野聖、担い茶売り、比丘尼、神主、猿まわし、鉢叩きなど、さまざまに仮装し、おどけた振舞をして興じ合った。秀吉は上機嫌で、布袋の笑っているような、目も口も見えぬような顔をしたという。
秀吉から、側室の「おまあ」即ち加賀殿前田氏に宛てて、瓜畑遊びに誘った、自筆の消息がある(『豊大閤真蹟集』50)。また、同じく側室の「おとら」即ち三条殿蒲生氏に宛てた、同じ内容の消息もある(同51)(豊臣秀吉筆
三条殿蒲生氏(おとら)あて消息)。これでみると、秀吉は、もっと規模の小さい瓜畑遊びを時々開催していたらしい。
いったい、瓜畑遊びのどこがそんなに秀吉の心を捉えたのであろうか。この遊びには、土の香り、鄙の香りが強くただよっている。恐らく秀吉は、このような土の香り・鄙の香りを愛したのである。それは多分、尾張の在の生れという彼の出自とも、深く関っていたであろう。つまり、土の香り・鄙の香りのするもの、素朴・純朴・自然なものへの愛は、秀吉にとって、一種の望郷の念・郷愁であったのである。北野大茶湯のため上洛した博多の宗湛が聚楽第で見た「松原のお茶屋」の風情の如きも、秀吉の鄙への愛・郷愁をよく現したものであった。『宗湛日記』天正十五年十月十四日の条にいう、
此入ノ松原ニ御茶屋アリ、トウ坊衆一人居テ、長ヰロリニ、一方ニハクドニスヽケタルクワンスヲスヘ、一方ニハテンカク豆腐二ツ立テ、又古キ板ノ上ニワラニテ円座ツクリ、ソノ上ニカキ二ツツモリテ三所ニ有リ、又其ワキノカヘニ、モノクサ二足アリ、是ヲ銭五文ツヽニ被売候トアリ、宗及・宗湛両人トモ、二足ヲ十文ニカイテ、又茶屋ノ前、円座二ツソロヲ取テ、クヽリノモトニモチヨリテ、タビヲヌキテ、其ノ上ニ置テハイ入ナリ、
(『茶道古典全集』第六巻)
ともあれ、秀吉には、鄙びたもの・素朴なものへの強い愛着があった。そして、これこそ、彼のわびへの志向の土台であり枠組みであったと、私は考えたいのである。
秀吉のわびの土台・枠組みが、鄙びたもの・素朴なものへの愛着であったに対し、利休のわびの土台は、「冷え」の美意識であった。「冷え」については、これまでに何度かふれたので、ここでは説明を省くが、それは、古代・中世の長い文化的伝統の中ではぐくまれた、高度に洗練された美意識であった。
わさと申つかわせ候、こうらいゑこし候はんまへに、申つけ候はん事おゝく候まゝ、正月五日すき候はゝ、十日より内に其方をたち候て、こし可申候、此方には五日のとうりうたる可まゝ、其心にて、いそきこし可申候、又ふしみのさしつもたせ、大くのかてんいたし候を、一人めしつれ候て、こし可申候、ふしみのふしん、なまつ大事にて候まゝ、いかにもへんとうにいたし可申候間、いそきさしつ大工一人めしつれ候て、こし可申候、みやけなともち候てこし候はゝ、くせ事にて候まゝ其よをいすこしもいたし候ましく候、むまのり二人はかりめしつれ、みちのそうさなきようにいたし候て、こし可申候、しせんくわんはく殿より正月のれに人よこせ候はゝ、よしたをめしつれ、こし可申候、ふしみのふしんの事、りきうにこのませ候て、ねんころに申つけたく候 以上 十二月十一日 みんふほうゐん 大かう
いま、洗練と言ったが、洗練を求める心は、通常、鄙や素朴を拒否する。だが、我国中世の藝術者たちは、鄙びたものや素朴なもの、または、あ(粗・麁・荒)れたものを、冷えの中に包摂し、冷えの中に所を得させることによって、というよりは、少し難しい言い方になるが、冷えを媒介させることによって、ある意味でいっそう深く高い冷えの美、あるいは高次の鄙・素朴の美を産み出した。世阿弥はこれを「却来花」と呼んだ。珠光の『心の文』に見える「冷え枯るる」というのも、根本同じものであった。そして、利休の志向したわびもまた、詮ずるところ、同様のものであったのである。
朗読者
佐藤友彦
狂言師/父、佐藤秀雄、三世井上菊次郎に師事、重要無形文化財総合認定。 名古屋市芸術特賞。 ―自分が聞いている人に、読み聞かせるという朗読ではなく、自分自身が読み解こうとする朗読に自然になりましたね。
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび