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朗読者:市川櫻香
はしがき
私は、中世から近世にかけての精神史・藝術史にいささかの関心をもつものである。殊に桃山時代は、狭くとればわずか二十年間足らず(本能寺の変から関ケ原戦まで)、広く取っても三十年間足らず (足利幕府の滅亡以降のいわゆる安土時代を含める)に過ぎないけれども、求心的な中世的精神が、遠心的方向に大きく展開した、真に中世から近世への転換の時代として、重い意味ある時代であると、私には思われる。
周知のように、「桃山時代」の称は、伏見城の雅称「桃山城」に由来する。江戸時代、伏見城址に多数の桃が植えられ、春の開花時には、洛中洛外から貴賤群集して桃見を楽しんだ。いつか人々は、伏見山を「桃山」と呼ぶようになり、ひいて伏見城を築いた豊臣氏の政権時代とその前後の若干の時代(その範囲については諸説あり)を桃山時代と呼ぶようになった。この時代に絢爛と咲き匂った文化の花が、桃のイメージとよくマッチしたこともあって、この呼名は、今ではすっかり定着したものとなった。
伏見城の建物の屋根には金箔瓦が多用されていた。それが日の光・月の光を浴びて輝くと、建物全体が金色に縁どられて見えた。桃山の麓には宇治川の流れが寄せ、それに続いて大池と呼ばれた宏大な池(巨椋池)があった。黄金色に輝く城が川や池に影を落とし、水波に照り映える有様は、さだめて壮観だったことであろう。
主な建物の内部の壁や襖には、金地に極彩色の豪華な絵がいたるところ画かれていた。調度品にも贅を凝らした、豪華なものが多かった。南蛮渡来の珍しい調度品もたくさんあった。
このように伏見城には、あたかも全山満開の桃山の春を思わせるような、華麗・豪奢な趣がいっぱいにあった。だがこの城にはまた、華麗や豪奢とは反対の趣もあった。花爛漫の春に対して言えば「雪間の草の春」のごとき、あるいは「花紅葉」に対する「浦のとまや」のごとき趣である。例えば、山里とか学問所とか呼ばれた郭には、そういう趣が豊かにあった。そこでは樹木が鬱蒼と生い茂り、中に点在する建物も、たいていは田舎家風の素朴・簡素な数奇屋であった。
つまり伏見城には、華麗・豪奢に対する素朴・簡素、花爛漫の春に対する「雪間の草の春」、「花紅葉」に対する「浦のとまや」のような、相反する極の趣きが並存していたのである。
このような、反対の極の趣きの並存は、桃山時代には、伏見城においてだけではなく、文化のあらゆる面において、いたるところ見られた。反対の極の並存ということは、いずれの時代にも多かれ少なかれ見られることではある。だが桃山時代においては、特にそれが顕著であった。それは、この時代が、中世から近世へという大きな転換の時期であったことと大いに関係があるであろう。およそ文化は、それの含む反対の極の種類が多ければ多いほど、彩り豊かな、活気に富んだものとなる。それ故、反対の極の種類が他のどの時代より多い桃山時代は、またどの時代にも増して、彩り豊かで活気に満ちた時代であった。
この本は、桃山文化の中で、特に藝術に関して見られる多種の反対の極の中から、十三種を選び、おのおのの対極を結ぶ線をいわば光軸として桃山の美と藝術を照明してみたものである。
ここで、あらかじめおことわりしておきたいことがある。
第一は、「桃山」という時代名についてである。
もともとこの呼び名は、右に述べたように、秀吉が洛南伏見に築いた伏見城の雅称「桃山城」に由来する。そして伏見城が桃山城と呼ばれるようになったのは、江戸時代以降のことである。それ故、わかりきったことであるが、豊臣時代には「伏見城」はあっても「桃山城」は無かった。この点からいえば、時代名も「桃山時代」よりは「伏見時代」の方が正確ということになろう。
だが、「伏見時代」も、豊臣政権時代全体の呼び名としては、実は餘り適当とはいえない。わが国では、日本歴史を時代区分する場合、各時代は、その時代の政権中枢の所在地の名を冠して呼ぶのが慣例となっている。奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土時代、江戸時代、みな然りである。ところで伏見城は、天正二十年(一五九二)から翌年にかけて、秀吉が伏見指月に築いた屋敷をもって濫觴とする。だがそれは、「多聞院日記」に「伏見隠居ノ普請」とあるごとく、初めは秀吉の隠居所、つまり私的生活の場所として構想されたものであった。これが大城に造り替えられて、単なる隠居所から脱皮し、秀吉の公私にわたる生活の本拠地の性格を帯びるようになったのは、文禄三年(一五九四)からである。その五年後の慶長三年(一五九八)、秀吉は不帰の人となっている。しかもこの五年の間には、大地震による城の倒壊で、ここが事実上、本拠地ではあり得ない時期もあった。してみれば、伏見城が政権の中枢として機能したのは、秀吉晚年のたかだか三、四年間に過ぎなかった。それは、本能寺の変とそれに続く山崎の戦によって彼が政権を握った天正十年(一五八二)から、彼が死ぬ慶長三年(一五九八)までの十六年間の、四分の一にも満たない。秀吉政権時代の大部分の期間、政権の中枢があったのは大坂であった。大坂城が起工されたのは、天正十一年(一五八三)賤ヶ岳(合戦の後であった。それから秀吉の死に至るまで、そこは秀吉の本拠地であり続けた。伏見城が竣工の後は、本拠地としての機能を伏見と分け持つことになったものの、本拠地であることをやめたわけではなかった。秀吉は、伏見城竣工後も、しきりに伏見と大坂の間を往来して、政務の決裁に当っていた。すると、豊臣政権時代全体の呼称としては、「大坂時代」が一番ふさわしいということになる。
しかしながら、「大坂時代」という呼び方も、「伏見時代」という呼び方も、一部学者の間で採用されることがあっても、一般にはいっこう定着しない。大勢は「桃山時代」である。思うにそれは、この時代に絢爛と咲き匂った文化の花が、桃の花のイメージとよくマッチしたためであり、また元来この国の人々が、このような情感的表現を好むが故であろう。告白すれば、私も「桃山」という呼び方が好きである。モモヤマと発音するときの、口の動きも音の響きも快い。そこで私は、学問的妥当性を犠性にしてでも、敢てこの呼び方を採用することにしたのである。おおかたの読者も、多分これに賛成して下さるであろう。
第二は、「桃山時代」の上限と下限についてである。「桃山時代」が「大坂時代」の別称であるとすると、それは政治史的には、山崎の戦から秀吉の死(一五九八)ないしは関ヶ原の戦(一六○○)までをさすことになるが、この本では、文化史学者や藝術史学者たちが普通そうするように、織田信長の活躍時代のいわゆる安土時代から江戸時代初期の寛永ころまでを桃山時代と呼ぶことにする。
第三は、この本で取上げる作品の範囲についてである。「桃山の美」の具体例として取上げてゆく作品は、桃山時代の日本でつくられたものに限局せず、その時代の人々の好尚に投じたものであるならば、前時代につくられたもの、または他国でつくられたものでも、これに含めてゆくことにする。
第四は、この本の中に出る、やや特別な意味をもつ用語についてである。その一つは「藝道」である。私はこの語を「姿から心へ」「心から姿へ」の「道」と解しているのであるが、詳しくは拙著『藝道の哲学』(東方出版刊)を参照してほしい。また「冷える」「枯れる」といった中世的な美の理念についても、同書を見てほしいと思う。
さいわいにこの小著が、桃山の美と芸術の魅惑を探る上で、またその特質を考える上で、いささかでも資するところあれば、著者の喜びこれに過ぐるものはない。
朗読者
市川櫻香
舞踊家/名古屋生まれ。むすめかぶき代表、花習会主宰。12代市川宗家より市川姓授与、祖母、豊後半壽、常磐津研究所に生れる。能と歌舞伎による新作「千手」「天の探女」、市川團十郎脚本「黒谷」、名古屋市芸術奨励賞、名古屋演劇ペンクラブ賞受賞等。 ―「伝えるより、気づいてもらう」と倉澤先生の言葉。日本的な「歌」の世界観が表現出来ることを目標にして読みました。どうでしょうか。
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび