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朗読者:天野鎭雄
12.唐獅子図屛風
人はこの世に生れ出ずるや、ただちに母親の乳房を求める。乳房は甘く、温かく、柔らかく、優しい。甘く、温かく、柔らかく、優しきものを求めるのは、人間の最も原本的な志向である。
しかし、優しさを志向するのみでは、苛烈な生存競争を乗り切ることはできない。生きるためには、強く、逞しく、猛くなければならぬ。そこで人は、強く、逞しく、猛きものを求める。その志向は、優しさへの志向と同じほどに必然的であるといえる。
弱肉強食の戦国時代において、強く、逞しく、猛きものへの志向が、他のいかなる時代よりも強烈であったであろうことは、容易に推察される。この時代、その志向を美術において最も鮮明に具体化したのは、狩野永徳(一五四三―九〇)であった。永徳が、当代の覇者である信長や秀吉に重用されて、安土城、大坂城、聚楽第などに健筆を揮ったことは前にも述べた(9節)。しかし、これら城郭に描かれた彼の数多の障壁画は、城郭と運命を共にして、尽く失われてしまった。それ故、今日に残る永徳の作品は意外に多くはない。上杉家本の洛中洛外図屛風、大徳寺聚光院の琴棋書画図、花鳥図、御物の唐獅子図、もと八条宮家の襖絵といわれ、いま東京国立博物館にある檜図屛風などが、現在一般に彼の筆と認められている。
これらの中で、当代の、強く、逞しく、猛きものへの志向を一番はっきりと体現しているのは、御物唐獅子図屛風である。これを一言で評するならば、「豪壮」というのがふさわしいであろう。狩野永納は『本朝画史』で、永徳の「大画」について、「舞鶴奔蛇の勢に似る」という。まことに、この二頭の獅子が、大地を踏み鳴らし、獅子吼しつつ進めば、いかなる悪霊鬼神も、面を向くことなく摺伏するであろう。喰うか喰われるかの死闘に明け暮れる戦国の武将が求めた、強さ、逞しさ、猛々しさを、これほど如実に描き切った絵は他にない。
伝承によれば、この屛風は、もと秀吉の所持品であった。秀吉は、天正十年の毛利攻めにも、この屛風を携行した。おそらく秀吉は、強敵毛利に対する自軍の勢が、この絵の唐獅子の如くであることを念じていたのであろう。有名な高松城水攻めの時にも、この絵は秀吉の陣屋にあった。秀吉が、本能寺の変の直後、高松城清水宗治の切腹で攻城にけりをつけ、毛利と講和し、明智光秀との決戦に臨むべく、神速をもって軍を返したのは名高い話であるが、この講和のさい、永徳の屛風は、毛利への贈物とされたという。空想の翼を馳せて言えば、秀吉がこの絵を毛利に贈ったことの背後には、おのれの勢威がこの絵の獅子の如く強猛であることを誇示し、毛利が信長の死を知って和議の破棄に動くのを未然に防ごう、との深謀遠慮があったのかも知れぬ。勿論、それは単なる空想に過ぎぬ。しかしこの絵にはそのような空想を抱かせるに十分な、激しい気魄・迫力があるのである。
後に、狩野常信(一六三六―一七一三)が、この絵と具(一対)になる屛風絵を制作した(御物 狩野常信筆 唐獅子図屏風 左隻 部分)。それには、向って左から右に疾駆する一頭の獅子が描かれている。永徳の絵を(向って)右隻、これを左隻として一双をなすよう図柄が考えられているのである。常信は、永徳の絵の二頭の獅子を夫婦と見、これに配するに仔獅子をもってしたのであろうか。常信の獅子が仔獅子であるとの説は未だ聞かぬが、私は、この獅子の、大きな体に似合わぬ、いかにもあどけなく稚い肢体、顔付から、そのように考えてみたい。
さて、二つの絵を並べて見ると、両者のもつ雰囲気は甚だ違っている。その違いの大きさたるや、これを一双とするのに躊躇を覚えさせるほどである。常信の獅子は、これが仔獅子であることを考慮に入れても、永徳の獅子に比して餘りにやさしい。岩の立体感を表現する皴法も、常信のは、永徳のそれに比して遙かにおとなしい。永徳の絵においては、金地金雲と獅子・岩が緊密な統一体をなしているのに、常信の絵では、獅子、滝、波、岩が金地金雲の間に程よく按排されて、一種の配置の妙を示しているものの、それらが相互に引き合って緊張感を醸すということはない。総じて言えば、常信の絵は、永徳の絵に見られるような強さ・逞しさ・猛々しさが乏しく、気宇の大きさもない。おだやかに、おとなしく、きれいにまとまっている。そこに、戦国乱世に生きた画人と、元禄の空気を呼吸した画人との、藝術意欲の相違を見ることもできるであろう。
朗読者
天野鎭雄
俳優/1936年愛知生まれ。愛知県NHK名古屋放送劇団、文学座研究生、「山本安英の会」など経て、劇団「劇座」代表。ラジオのパーソナリティーを務め「アマチン」の愛称で親しまれる。愛知県芸術文化選奨賞等受賞。 ―桃山文化を、細かく深く見た言葉を語るわけですが、自由はつらつでいいのではないかと、思い読んでいます。
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび