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朗読者:加藤洋輝 / 天野鎭雄
25.天下人の能と民衆の風流踊
この章では藝能に視点を定め、天下人たる秀吉の愛好した藝能である能と、民衆の藝能である風流踊とを取上げよう。
「たびたびお手紙いただいていますが、このところ能で暇がなく、お返事もさしあげられないでいます。……能の腕前も一段と上って、仕舞をいろいろして人に見せると、皆がほめてくれます。能会も、もう二日目まですみました。ちょっと休んで、九日に三日目をし、京中の女房どもに見せてやろうと思っています。……能に精を出すと、とてもくたびれて困ります。十四五日頃には暇になりますので、伏見へ行って城普請をいそがせ、五三日滞在してから、あなたの所へまいり、いろいろお話しましょう。あなたのところでもまた能をしてお見せしますので待っていて下さい。なるべく早くまいります。」
これは豊臣秀吉から、「おね」すなわち北政所にあてた消息である(『豊大閤真蹟集』四七)。日付はないが、私は文禄二年十月七日、又は八日のものと推定している。この消息に示されるように、秀吉の能好みはひと通りのものではなかった。歴代の為政者の中で、秀吉ほど能を愛好した者は、空前にして絶後であった。それは殆ど「能狂」と言ってもいいほどの耽溺ぶりであった。もっとも、秀吉は普請も好きで、「普請狂い」と評されることがあったほどであったし、茶湯への執心もなかなかのものであった。秀吉という人は、何事にでも熱中する性癖の人であったらしい。
秀吉が能に病みつきになったのは、甫庵『大閤記』(巻十四)によると、文禄二年正月、名護屋陣中のつれづれに、暮松新九郎から能を習ってからである。初めに「弓八幡」をならい、三月初めまでに仕舞十番を覚えた(三月五日付北政所あて秀吉消息)。二月には金春大夫八郎、観世大夫左近も名護屋に呼ばれた。同月九日、秀吉の近臣木下吉隆は、秀次の近臣駒井重勝に、名護屋城本丸の能舞台が出来ることを報じ、能の道具・面を送り届けるよう指示した。もちろん、秀吉の意をうけてのことである。秀次は同二十二日、秀吉に能道具を送っている(『史料綜覧』)。
こうして、秀吉の能楽熱は急速に高まり、四月九日には、新装の名護屋城本丸能舞台で能会が催された。「翁」「高砂」「田村」「松風」「道成寺」「三輪」「金札」を金春八郎が、「邯鄲」を暮松新九郎が、「弓八幡」を秀吉自身が演じた。「弓八幡」の際には、金春八郎が、秀吉から拝領の菊紋付小袖を着して祝言をした(甫庵『大閤記』巻十四)。秀吉は、拾丸誕生の報によって、八月十五日名護屋を発って大坂へ向うが、その前日の十四日にも、能会を催している(『史料綜覧』)。
秀吉の能楽熱は、大坂へ帰ってからも上る一方であった。同年閏九月十三日、秀吉は大坂城で能会を催し、「難波」「忠度」「夕顔」「殺生石」「卒都婆小町」「采女」「船弁慶」「女郎花」「氷室」「源氏供養」「高砂」「山姥」「鞍馬天狗」の十三番を、暮松新九郎と金春安照とに交互に演じさせて見物、面白いものは自分も稽古しよう、と言ったという(『駒井日記』)。
十月二日晩には、浅野長政亭に臨んで、夜半まで能会を催し、自ら「井筒」など二番を舞い、蒲生氏郷に「誓願寺」、織田常真に「籠大鼓」、徳川家康に「野宮」、細川忠興に「源氏供養」を舞わせている(同)。
秀吉の演能熱がクライマックスに達したのは同月五日から禁中で催した能会においてであった。秀吉が後陽成天皇のために叡覧能を催した記念の絵と伝えられる神戸市立博物館蔵の「観能図屛風」は、ことによるとこの折のものであるかもしれない。
この能会は、一日おきに三日間、悪天候の場合には順延という予定であった。初日の五日には、秀吉は自ら「弓八幡」「芭蕉」「皇帝」「三輪」の四番のシテを演じ、前田利家が「源氏供養」、豊臣秀俊が「千手」、豊臣秀勝が「羽衣」、徳川家康が「野宮」、織田常真が「山姥」の、それぞれシテを演じた。暮松新九郎が「翁」を、金春安照は「芭蕉」のツレを演じた。また徳川秀忠が「源氏供養」の、毛利輝元が「芭蕉」の、それぞれ小鼓を受持ち、細川幽斎が「三輪」の太鼓を受持った。観能した三藐院近衛信尹は、秀吉の能について「神変奇特」と評している。
二日目は七日であった。秀吉は朱鞘の反りの強い太刀と脇指、六糸緞(舶来の繻子)にいろいろ華やかな縫取りをした衣服、墨染の頭巾、という派手ないでたちで張り切って参内し、自らは「老松」「定家」「大会」の三番を演じた。暮松新九郎が「翁」を、蒲生氏郷が「鵜飼」を、細川忠興が「遊行柳」を、宇喜多秀家が「楊貴妃」を、豊臣秀勝が「東岸居士」をそれぞれ演じた。秀吉は、家康、利家といっしょに狂言もした。はじめに掲げた秀吉の消息は、この日の晩か翌日に書かれたものであろう。
三日目は九日の豫定であったが、これは天候か何かの都合で十一日に延期になった。この日は女ばかりに見物させ、秀吉は「呉服」「田村」「松風」「杜若」「金札」の五番を演じた。女衆を前に五番も演じて、得意満面たる秀吉の様が彷彿されてほほえましい。『老人雑話』によると、秀吉が騎馬で烏丸通を参内する時、新在家の下女四、五人が赤前垂姿で見物に出た。これを見た秀吉は、今から自分が内裏で能をするから、皆皆見物に来いと言った、という。この挿話は、或はこの時のことであるかも知れない。
秀吉は、その後もしきりに能会を催し自ら演ずると共に人にも演じさせているが、それについて述べることは割愛し、彼の能への執念が、彼の死後も能会を催させたことを述べておこう。
慶長三年八月十八日、秀吉は、幼少の秀頼の行末に心を残しつつ、伏見城で薨じた。享年六十二歳。その死は、遺命によって長く秘されていたが、廟所の建立は東山大仏に鎮守社を創建するとの名目で薨去後ほどもなく始められ、翌年、阿弥陀峰に仮社殿竣工して、四月十八日神霊遷座の儀がとり行われた。朝廷からは勅使がつかわされて「豊国大明神」の神号を賜り、更に正一位の神階が授けられた。引続き造営された壮麗な本社殿(重要文化財 狩野内膳筆 豊国祭礼図屏風 左隻 豊国社社殿・右隻 第一扇 豊国社)は、このあと秀頼によって再建・整備される大仏と並んで東山山麓に偉容を誇り、奇しくも、西の徳川家の拠点たる二条城(重要文化財 洛中洛外図屏風(林原本) 左隻 二条城天守閣)と対峙する形になる。それはしかし、もう少し後のことである。
さて秀吉の命日である八月十八日と、遷宮の日である四月十八日とが豊国社の例祭日と定められたが、両祭日の翌日、つまり八月十九日と四月十九日には、豊国社で能が奉納されることになった。もちろん、秀吉の能好みを慮ってのことである。四座のうち、金春・金剛が一組となり、観世・宝生が他の一組となって、この二組が交替で当番をつとめた。番組や演者については、『舜旧記』に記録がある。こんにち東京国立博物館に蔵せられる洛中洛外図屛風を見ると、大仏と豊国社との間に当って能舞台が描かれ(国宝 岩佐又兵衛筆 洛中洛外図屏風(舟木屏風)右隻 一・二扇 大仏殿)「とよくにしやうふたい」(豊国常舞台)と書込がある。その舞台では今しも「松風」が演じられ、観客は二階建の客席にひしめいている。これはおそらく、実景に基く描写であろう。
秀吉の七回忌に当る慶長九年八月に催された豊国社臨時祭の折には四座が一番ずつ新儀能を奉納した。太田牛一が「神を諫め申すには、舞楽を奏するに如くはなし。豊国大明神は、御能数寄給ひ、常々遊興の間、ひとしほ感悦、御納受有べし」(『豊国大明神祭礼記』)と記すごとく、これも、能好きであった秀吉を思いやってのことであった。能の模様について太田牛一は、「先ず金春、其の次観世、其の次宝生、其の次金剛。一度に四人面を当て、面箱も四つ持出し、三番叟も四人舞ふ。大鼓四丁、小鼓十六張にて、搓み出し打囃す。天地響き渡り、社壇動くばかり、殊勝さ感涙に袖を浸す。定めて明神感応なされ給うべし」(同)と記す。「豊国祭礼図屛風」にもその様は精しく描写される(重要文化財 狩野内膳筆 豊国祭礼図屏風 右隻 猿楽奉納)。殊に徳川黎明会所蔵本では、これが右隻の中心の景として大きく扱われている。
このように生前自らしきりに能を興行したのみならず、死後も能会を催させる程に能を愛好した秀吉であったから、能面への関心も相当なものであった。甫庵『大閤記』によれば、秀吉は、既に名護屋在陣中に、醍醐の角ノ坊(後に天下一の称を許され、天下一若狭という)なる面打師を呼寄せて、金春家名物の小面、般若、小尉、三光尉、観世家名物の深井、皺尉、近江女、小癋見などを写させたという。また、『舜旧記』によれば、秀吉死後の慶長八年五月十八日、面打師出目助左衛門が、豊国大明神の御霊夢によって金春の面を新しく打ち、豊国社に奉納したという。秀吉の執心が死後にまで面を打たせたのである。
図に掲げたのは、その秀吉が殊に愛用したと伝える「雪の小面」である。伝承によると、秀吉殊寵の小面に、「雪」「月」「花」と名づけられた三面があった。「雪」は金春大夫に、「月」は家康に、「花」は金剛大夫に、それぞれ与えられた。のち、「雪」は京都金剛家に入り、「花」は金剛宗家に相伝して、のちに東京三井家に移った。「月」は江戸城で烏有に帰したというが定かでない。三面とも作者は竜右衛門と伝える。竜右衛門は、姓は石川、名は重政。室町時代の応永頃の人と考えられる。世阿弥の『申楽談義』によれば、越前の人で、彼の打つ面は、着ける人を選ばなかった(誰が着けてもよかった)という。小宮豊隆氏は、彼は「概して謂はゆる無表情に近い静かな美しい面を得意とした」と言っておられる(『能面解説』)。
天下人の秀吉が最も愛した藝能が能であったに対し、民衆の最も愛好したそれは風流踊であった。特に慶長九年の豊国社臨時祭に催された大規模な風流踊は、後後までの語り草であった。その祭礼を記録した「豊国祭礼図屛風」(豊国神社蔵)から、大仏門前での風流踊の部分を抽き出して掲げた。風流踊とは、華やかな衣装で、囃しに合せて、群舞するもので、数寄を凝らした傘鉾を伴うのが常であった。
図は、上京の西陣・小川組の踊りを描いた部分である。傘鉾は、雲に麒麟の模様をあらわす傘の上に、豪華に咲き誇る牡丹の作り物を置いたもの。牡丹には大きな胡蝶がとまっている。この傘鉾を取巻いて、紅地に金の亀甲繋ぎ文というきらびやかな装いの女たちが輪舞する(重要文化財 狩野内膳筆 豊国祭礼図屏風 左隻 輪舞の女と警固の男)。頭布は黒地に金の亀甲繋ぎ文である。いずれも右手に扇、左手に作り花を持つ。くの字に体を曲げた姿態が、なまめかしく美しい。踊り手を取り巻いて円陣をつくり、杖を手に跪く男たちは、『豊国大明神祭礼記』に「上下京総警固五百人、年寄共きんの棒を手々に持て躍を廻り」とあるのに該当するであろうか。彼等の衣装は踊り手と色違いの同文であり、頭には、笠とも帽子ともつかぬものを戴く。腰に立涌文の布を下げる者もある。踊りの輪の中では、太鼓、鼓、笛、羯鼓など様々な楽器を手にした者たちが、自分たちも踊りながら、にぎやかに、威勢よく囃している。南蛮人、お多福などに仮装している者も見える。いずれも赤く染めたわらじをはき、赤足袋をはく者もある。
朗読者
加藤洋輝 / 天野鎭雄
能楽観世流太鼓方/1974年生まれ/観世流十六世宗家観世元信に師事。 ―「天下人と民衆は、沈静と躍動という捉え方の方がよかったかもしれない」、と著者がおっしゃられている。太鼓方の読み手は、淡々とした方だが、能楽師の沈静には、確かに内面の躍動がなくてはならない、両方をどう納めてゆくかを考えながら加藤さんの朗読を聞かせてもらいました。(櫻)
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび