第十一章

花紅葉と冷え枯るる

37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体

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朗読者:市川櫻香

37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体

はじめにも述べた如く、紹鷗は、定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」を、佗茶の心をあらわす歌としていたという。では、いったい紹鷗は、この歌の意味をどのように解釈していたのであろうか。

この歌の解釈として広く行われているものの一つは、これが秋の夕暮のさびしさをテーマとしている、というものである。

秋はさびしい。秋の夕暮はひとしおさびしい。そのさびしさを詠んだ歌は数々あるが、中でも

さびしさに宿を立ち出で眺むれば
 いづこもおなじ秋の夕暮 (後拾遺、良暹)

は、古今の絶唱であろう。広い天地の間にただ一人あるという、人間存在のはてしない孤独を、この歌の作者は、深く見入っている。秋の夕暮のさびしさを一つ所に特定せず、「いづこも同じ」と言い放ったことによって、限りなくはてしない寂寥感がよく出ている。

ところで、秋の夕暮の歌といえば、誰でも想い起こすのが、いわゆる三夕の歌である。それは、「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」(寂蓮)、「心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮」(西行)、それに、この「見渡せば……」の歌である。良暹が「いづこもおなじ」と言って、秋の夕暮のさびしさを何にも限定せず漠然とあらわしたのに対して、三夕の歌は、同じさびしさを、「まき立つ山」「鴫立つ沢」「浦のとまや」という具体的な情景に託して歌っている―このように解釈すると、三夕の歌の主題は、どれも「秋の夕暮のさびしさ」だということになる。

それは今日普通に行われている解釈であるけれども、いま定家の「見渡せば……」の歌に限って言えば、これとは違う、しかも有力な解釈が、昔からあった。それは、この歌を、『源氏物語』明石の巻の、

はる〴〵と、物のとゞこほりなき海面なるに、中〳〵、春・秋の、花・紅葉のさかりなるよりは、たゞそこはかとなう繁れる蔭ども、なまめかしきに、

と結びつけて解するものである。つまり、定家は「たゞそこはかとなう繁れる蔭ども」と「浦のとまや」と置きかえた、というのである。

明石の巻では、「花紅葉のさかりなる」と「たゞそこはかとなう繁れる蔭ども」とを比べ、後者の方が前者より、いっそうなまめかしいとする。これを定家の「見渡せば……」にあてはめれば、「花紅葉」より「浦のとまや」の方がいっそうなまめかしいということになる。一首の意を砕いて解けば、「浜辺をはるかに見渡すと、見えるものとてはとまやばかりの、この秋の夕暮の景は、まことになまめかしい。そういえば、ここには花もなければ紅葉もない。それなのに、花紅葉あるよりも、いっそうなまめかしい情景だ」ということになろうか。なまめかしい、では意味が限定されすぎるというのであれば、美しい、と言いかえてもよい。とにかく、この歌は、秋の夕暮の、さびしさよりは、なまめかしさ、ないしは美しさを、詠んだものということになるのである。

こういう解釈に対して、斎藤茂吉は、それは誤りであるときめつけ、誤った原因は、一つには、歌そのものに拠らずに『源氏物語』などを云々したこと、いま一つは、この平凡な幼稚な歌を買いかぶっていること、だと述べ、この歌はやはりさびしさを歌ったものであるとしている(『童馬漫語』)。だが、茂吉の解釈は、多分に近代的な解釈であって、伝統的には、『源氏物語』に結びつける解釈の方がむしろ主流であったと思われる。

さて紹鷗は、はじめ歌の道に志した人であった。そしてこの方面での彼の一番の師は、三条西実隆であったが、実隆は、「見渡せば……」の歌を、『源氏物語』に結びつけて解釈している人であった。その実隆から、紹鷗は、定家の講義を受け、また『源氏物語』の講義を受けている(『山上宗二記』)。当然、「見渡せば……」の歌についての実隆の説を聞くこともあったであろう。そして紹鷗は、師の説を、基本的に受け入れていたと私は推測する。実隆の解釈は、また紹鷗の解釈でもあったであろう。

茂吉らの解釈に従えば、「花紅葉」と「浦のとまや」との間には、情調において断絶があり、両者は異質である。はなやかな花紅葉と、さびしい浦のとまやとは、あくまで異る。これに対して、実隆らの解釈に従えば、「花紅葉」と「浦のとまや」は連続しており、両者は根本同質なのである。もちろん、実隆らから見ても、花紅葉ははなやかであるし、浦のとまやはさびしい。しかし、花紅葉ははなやかなままで、浦のとまやはさびしいままで、どちらもなまめかしいのである。

浦のとまやのさびしいなまめかしさは、花紅葉のはなやかななまめかしさより、ある意味で深められたなまめかしさである。深められたなまめかしさは、これを受容する深められた美意識と対応する。そしてそのような美意識は、特に中世にはっきりとあらわれてきた美意識であった。その意味で、これを中世的美意識と呼ぶことができる。

中世的美意識のたしかな体現者の一人である心敬は、「氷ばかり艶なるはなし」と述べていた。これは、「見渡せば………」の歌と共通する美意識の表白である。「艶」といえば、ふつうは、花や、紅葉や、美女を想い浮かべる。しかし心敬は、花・紅葉・美女の艶より遙かに深い艶を、氷に見ていたのである。

定家が浦のとまやに見た如き、また心敬が氷に見た如き、深められたなまめかしさ・深められた艶は、中世においては「冷え」と形容されることが多かった。「冷え」については、第三章で述べるところがあったので、ここではこれ以上に立ち入らない。

結局、紹鷗が「見渡せば……」の歌に託して語ろうとした茶の風体は、深められた意味でなまめかしい、深められた意味で艶な、つまりは冷えた、風体であったのである。

紹鷗の、こういう冷えた風体の茶によく適った道具として、私は、紹鷗所持白天目(図40・154)をあげたい。また、紹鷗所持馬麟筆「朝山」の絵も、「此絵ひやかなる絵なり、乍去、あり〳〵とある事ハなし、面白おもひ申うちに、かすかにおもしろきなり、又かすかなるとおもへは、舟なとハあり〳〵と書申也」(『宗及他会記』)という宗及の拝見記から推して、やはり紹鷗の冷えた茶風によくかなった掛物だったであろう。

朗読者

市川櫻香

舞踊家/名古屋生まれ。むすめかぶき代表、花習会主宰。12代市川宗家より市川姓授与、祖母、豊後半壽、常磐津研究所に生れる。能と歌舞伎による新作「千手」「天の探女」、市川團十郎脚本「黒谷」、名古屋市芸術奨励賞、名古屋演劇ペンクラブ賞受賞等。―「伝えるより、気づいてもらう」と倉澤先生の言葉。日本的な「歌」の世界観が表現出来ることを目標にして読みました。どうでしょうか。

第1部

桃山の美とこころ
はしがき
はしがき
第一章
公家と武家
1.秀吉の松丸殿あて消息
2.格外の書と破格の書
3.三藐院の団欒の歌
4.秀吉と三藐院
第二章
南蛮物と和物
5.唐物と南蛮物
6.南蛮服飾
7.片身替詩歌文様の能装束
8.和物の伝統の継承発展
第三章
花と雪間の草
9.金碧障壁画
10.「冷え」の美
11.雪間の草の春
第四章
豪壮と優婉
12.唐獅子図屛風
13.唐獅子とは
14.花下遊楽図屛風
第五章
閑寂と変化
15.長次郎の「大黒」と織部の「三角窓」
16.早船茶碗の文
17.利休における閑寂と変化
18.織部焼
第六章
懐古と求新
19.異国的なるものへの憧憬
20.南蛮画
21.伊勢物語絵、源氏物語絵
第七章
キリシタンと禅
22.キリスト教と禅
23.キリシタン美術
24.禅の美術
第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動)
25.天下人の能と民衆の風流踊
26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
27.沈静の美、躍動の美
第九章
御殿と草庵
28.宇治橋三の間の名水から竹生島へ
29.都久夫須麻神社本殿
30.高台寺の時雨亭と傘亭
31.高台寺茶亭、都久夫須麻神社本殿と伏見城
第十章
金碧と水墨
32.金碧画の平板と水墨画の奥行
33.現実超越の水墨画と現実肯定の金碧画
34.画道における楓図、松林図の位置
35.楓図と松浦屛風ならびに花下遊楽図との比
第十一章
花紅葉と
冷え枯るる
36.高雄観楓図と鬼桶水指
37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
38.冷え枯るる風体
第十二章
遠心と求心
39.桃山時代の遠心と求心
40.妙喜庵 待庵
41.東山大仏殿
42.秀吉の遠心と利休の遠心
第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって
43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
44.秀吉と利休のわびへの志向
45.冷えわびとなまわび
第2部
倉澤先生に聞く
織部に「閑寂」を忍ばせる
信長のこと
家康と桃山のこと
あとがき
年表
第一部図版目録