第九章

御殿と草庵

31.高台寺茶亭、都久夫須麻神社本殿と伏見城

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朗読者:天野鎭雄

31.高台寺茶亭、都久夫須麻神社本殿と伏見城

では、この両茶亭が伏見城からの移建であるとした場合、それらは城内のどこにあったのであろうか。建物の風趣から考えて、それが本丸などにあったとは無論考えられない。それはやはり、野趣の横溢した山里の郭ないし「学問所」のあたりにあるのが似つかわしい。

「学問所」は、秀吉が文禄五年(慶長元年)から木幡山を中心に築いたいわゆる木幡伏見城内の東南、舟入の近くに構えたものである。それは、甫庵『大閤記』巻十五、同巻二十、『南陽稿』所収「学問所記」、『鹿苑日録』所収「日用集」などによれば、大体次のようなものであった。

河辺に山を築き、樹木をあまた植えて深山の如き中に、堂宇が建てられてある。山の口には高閣(楼門)がある。これを通って松径を一里ばかり行き、一休みしたいと思うところに一つの草堂がある。四方松杉に囲まれていて、夏は炎暑を避けることができ、冬は厳寒を排することができる。これに茶店が附属していて、中に火炉がある。この草堂を出て少し行くと重門がある。門を入ると高堂があって学問所と名づけられている。堂の四周に茅屋を構え、そのそれぞれの屋中に、秀吉作の和歌が秀吉の自筆で書かれている。高堂の前には周囲二十五里の長堤が築かれてあり、また「日昏」と呼ばれる眺めのよい長橋がある。

これを要するに、学問所は、広大な庭園と、その中に点在するいくつかの建物とから成っていた。建物群の中心をなしていたのは高堂で、時にはこの高堂のみを、また時には、その中心の一室のみを、学問所の名で呼ぶこともあったのである。

さて時雨・傘両茶亭の伏見城内での所在地につき、最も広く行われている説は、時雨亭が、右の「高堂」に当るとするものである。時雨亭が二階建で背の高い建物であるところは、いかにも「高堂」と呼ばれるにふさわしい。しかしながら、「重門」を入ったところにあり、しかも四周に四つの「茅屋」をしたがえている堂としては、時雨亭は餘りに規模が小さく、簡素に過ぎる、というのが私の感じである。

学問所が完成した慶長二年の暮、西笑承兌は、秀吉から召されて学問所を見学した。その日の日記に西笑は、「四方の御座敷」をひとつひとつ見た後、秀吉と共に「舟入御殿」に入って夜まで話し、初更に帰った、と記している。この書きぶりからして、「舟入御殿」は四方の茅屋の中央にある建物すなわち「高堂」に当るように思われる。とすれば、高堂は「御殿」であって、時雨亭の如き草庵風の建物ではなかったことになる。ともあれ、学問所の「高堂」は、今日の時雨亭ではない、というのが差当っての私の結論である。

次に時雨・傘亭のいずれか一方またはその両方が、学問所の「茅屋」に当るとの見方がある。それはあり得ることで、時雨亭が高堂であるよりは、傘亭が茅屋である蓋然性の方が高いといってよいであろう。また、学問所の「草堂」と「茶店」がこの両亭またはそのいずれかに当ると考えることもできよう。茶店内には「火炉」があったが、この火炉は即ち竈だったと思われる。傘亭の如きは、火炉つきの茶店を伴う草堂というのにぴったりの建物である。また、聚楽第にも竈を構えた茶屋のあったことが『宗湛日記』によって知られるが、(44節参照)、その茶屋が伏見城に運ばれて学問所の「草堂」となり、これが更に高台寺に運ばれた、と推理してみるのも面白い。

最後に、竹生島の旧辯才天堂すなわち今の都久夫須麻神社本殿の母屋がどこから移されたか、の問題に立帰ろう。前に述べたように、それは伏見城日暮御殿を移したと伝えられていた。この伝承の線に沿って考えてみると、日暮御殿とは学問所の日昏橋畔の御殿つまり舟入御殿(高堂)ということになるであろう。舟入御殿の様子について西笑は、「宮殿の華麗さは私の拙い筆をもってしては写し難い。杜牧が阿房宮賦を作ったごとき筆力でなくては、とても形容できない」と記している。いささか表現が大げさであるが、それは、今日の都久夫須麻神社本殿内部の華麗な趣によく符合すると言えよう。私は、かつて都久夫須麻神社本殿の中に坐した時、秀吉がここに「有道の名士を集め、茶経を談じ茶器を翫び、茶の香色を論じ風味を賞し」(『学問所記』)た様を無理なく思い浮べることができた。ここではこれ以上詳しく述べることはできないけれども、要するに私は、都久夫須麻神社本殿の母屋部分は、もと伏見城学問所舟入御殿の、おそらくは中心の一室をなしていたと考えたいのである。

以上で、都久夫須麻神社本殿内部と時雨亭とを並べて掲げた趣意が、おおかたおわかりいただけたであろう。一方は典型的な「御殿」、他方は典型的な「草庵」として、対極に位置しながら、どちらも伏見城学問所にあったと推測されるのである。ここにわれわれは、秀吉という人物のうちに、そしてまた桃山という時代のうちに、並存していた、絢爛華麗なるものへの志向と、素朴自然なるものへの志向とを、よく見て取ることができるであろう。

朗読者

天野鎭雄

俳優/1936年愛知生まれ。愛知県NHK名古屋放送劇団、文学座研究生、「山本安英の会」など経て、劇団「劇座」代表。ラジオのパーソナリティーを務め「アマチン」の愛称で親しまれる。愛知県芸術文化選奨賞等受賞。―桃山文化を、細かく深く見た言葉を語るわけですが、自由はつらつでいいのではないかと、思い読んでいます。

第1部

桃山の美とこころ
はしがき
はしがき
第一章
公家と武家
1.秀吉の松丸殿あて消息
2.格外の書と破格の書
3.三藐院の団欒の歌
4.秀吉と三藐院
第二章
南蛮物と和物
5.唐物と南蛮物
6.南蛮服飾
7.片身替詩歌文様の能装束
8.和物の伝統の継承発展
第三章
花と雪間の草
9.金碧障壁画
10.「冷え」の美
11.雪間の草の春
第四章
豪壮と優婉
12.唐獅子図屛風
13.唐獅子とは
14.花下遊楽図屛風
第五章
閑寂と変化
15.長次郎の「大黒」と織部の「三角窓」
16.早船茶碗の文
17.利休における閑寂と変化
18.織部焼
第六章
懐古と求新
19.異国的なるものへの憧憬
20.南蛮画
21.伊勢物語絵、源氏物語絵
第七章
キリシタンと禅
22.キリスト教と禅
23.キリシタン美術
24.禅の美術
第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動)
25.天下人の能と民衆の風流踊
26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
27.沈静の美、躍動の美
第九章
御殿と草庵
28.宇治橋三の間の名水から竹生島へ
29.都久夫須麻神社本殿
30.高台寺の時雨亭と傘亭
31.高台寺茶亭、都久夫須麻神社本殿と伏見城
第十章
金碧と水墨
32.金碧画の平板と水墨画の奥行
33.現実超越の水墨画と現実肯定の金碧画
34.画道における楓図、松林図の位置
35.楓図と松浦屛風ならびに花下遊楽図との比
第十一章
花紅葉と
冷え枯るる
36.高雄観楓図と鬼桶水指
37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
38.冷え枯るる風体
第十二章
遠心と求心
39.桃山時代の遠心と求心
40.妙喜庵 待庵
41.東山大仏殿
42.秀吉の遠心と利休の遠心
第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって
43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
44.秀吉と利休のわびへの志向
45.冷えわびとなまわび
第2部
倉澤先生に聞く
織部に「閑寂」を忍ばせる
信長のこと
家康と桃山のこと
あとがき
年表
第一部図版目録