第十章

金碧と水墨

35.楓図と松浦屛風ならびに花下遊楽図との比

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朗読者:市川阿朱花

35.楓図と松浦屛風ならびに花下遊楽図との比

先ず「松浦屛風」(国宝 婦女遊楽図屏風(松浦屏風))と対比させてみよう。この金碧屛風絵には、先にも述べた如く、精神的奥行・深みが、全くと言ってもいいほど感じられない。この絵には、実在の深処への関心、現実超越の志向が極めて薄弱なのである。実在の深処への関心、現実超越の志向は、宗教的関心・志向と言われてもよい。この点から言えば、この絵は、テーマにおいてのみならず内実においても、宗教性の殆どない「世俗画」なのである。ことわっておくが、世俗画であることは、その作品の藝術的価値の低さに直結するものでは勿論ない。「松浦屛風」がまことにすぐれた、すばらしい作品であるのは、何人も否み得ぬところである。

テーマにおいても、内実においても世俗画である絵の典型として、江戸時代の歌麿の絵(喜多川歌麿画 婦女人相十品ポッピンを吹く娘 正面・喜多川歌麿画 婦人相学十躰 浮気之相)に代表される浮世絵を挙げることができるが、「松浦屛風」の如きは、まさしく浮世絵の先駆と言えよう。

これに対し、「楓図」は、テーマにおいては宗教と直接かかわりのない世俗画であるが、内実においては、深い意味での宗教画と言って差支えないのである。金地濃彩のこの絵が、他の濃彩画と同じく、観者の感性に強く作用することは勿論である。しかしこの絵は、同時に、感性を超えて、精神の深処にも強く作用する。この絵に対する時われわれは、画面の奥に深き実在の真相を豫感し、それに参入せんとの心持に誘われるのである。それは、この絵が、実在の深処・心の表現であるからである。

国宝 狩野長信筆 花下遊楽図屏風 左隻(第4章47)
東京国立博物館所蔵 出典:ColBase
国宝 長谷川等伯筆 楓図 智積院障壁画の内(第10章136)
智積院所蔵

次に、「花下遊楽図屛風」を「楓図」と対比させてみよう。「松浦屛風」と較べると、「花下遊楽図屛風」は、桃山時代に強まってきた現実肯定・現世謳歌の精神を母胎とする当世風俗画である点で「松浦屛風」と共通するものの、「松浦屛風」にはない精神的奥行・深みをかなりとどめている。それは、この絵に、中世的な現実超越の志向・実在の深処への関心が、なお残っていることを示す。つまり、「松浦屛風」ほど世俗化されてはいないのである。「花下遊楽図」が、高雅・清澄な風俗画(14節)である理由の一つは、ここにある。

「花下遊楽図」は、実在の深処と関りをもつ点で、「楓図」と共通している。だが、両図の、実在の深処との関り方は、いわば正反対である。「花下遊楽図」が「心へ」の往相の絵であるのに対し、「楓図」は、「心から」の還相の絵であるのである。

国宝 長谷川等伯筆 松林図屏風 右隻(第10章137)
東京国立博物館所 出典:ColBase
左隻 出典:ColBase

最後にもう一度、「楓図」と「松林図」とを見くらべてみよう。一は金地濃彩の金碧画、他は色彩を捨離した水墨画として、様式的には対極に位置しながら、両者は、実在の深処・心からの還相の道に生れた絵として、共通の内実を具えている。われわれは、かかる絵を寂かに鑑賞することを通して、実在の深処へといざなわれることができる。絵の鑑賞が、鑑賞者自身を深め、高めることになるのである。真に傑出した藝術作品とは、かくの如きをいうのであろう。

朗読者

市川阿朱花

舞踊家・むすめかぶき/花習会。12代市川宗家より市川姓授与/市川櫻香に師事。能と歌舞伎による「勧進帳」「舟弁慶」など。 本書の年表の作成に携わりました。芸術書に歴史年表を加えることで、その芸術が「時」と「社会」に大きく関わることに気づきました。更に、等伯の絵を見ながら朗読していくうちに、戦国の武将達の身体感が等伯の絵と共に感じられました。これは年表の作成効果に思いました。武将たちとの距離を縮めた気がします。

第1部

桃山の美とこころ
はしがき
はしがき
第一章
公家と武家
1.秀吉の松丸殿あて消息
2.格外の書と破格の書
3.三藐院の団欒の歌
4.秀吉と三藐院
第二章
南蛮物と和物
5.唐物と南蛮物
6.南蛮服飾
7.片身替詩歌文様の能装束
8.和物の伝統の継承発展
第三章
花と雪間の草
9.金碧障壁画
10.「冷え」の美
11.雪間の草の春
第四章
豪壮と優婉
12.唐獅子図屛風
13.唐獅子とは
14.花下遊楽図屛風
第五章
閑寂と変化
15.長次郎の「大黒」と織部の「三角窓」
16.早船茶碗の文
17.利休における閑寂と変化
18.織部焼
第六章
懐古と求新
19.異国的なるものへの憧憬
20.南蛮画
21.伊勢物語絵、源氏物語絵
第七章
キリシタンと禅
22.キリスト教と禅
23.キリシタン美術
24.禅の美術
第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動)
25.天下人の能と民衆の風流踊
26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
27.沈静の美、躍動の美
第九章
御殿と草庵
28.宇治橋三の間の名水から竹生島へ
29.都久夫須麻神社本殿
30.高台寺の時雨亭と傘亭
31.高台寺茶亭、都久夫須麻神社本殿と伏見城
第十章
金碧と水墨
32.金碧画の平板と水墨画の奥行
33.現実超越の水墨画と現実肯定の金碧画
34.画道における楓図、松林図の位置
35.楓図と松浦屛風ならびに花下遊楽図との比
第十一章
花紅葉と
冷え枯るる
36.高雄観楓図と鬼桶水指
37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
38.冷え枯るる風体
第十二章
遠心と求心
39.桃山時代の遠心と求心
40.妙喜庵 待庵
41.東山大仏殿
42.秀吉の遠心と利休の遠心
第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって
43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
44.秀吉と利休のわびへの志向
45.冷えわびとなまわび
第2部
倉澤先生に聞く
織部に「閑寂」を忍ばせる
信長のこと
家康と桃山のこと
あとがき
年表
第一部図版目録