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朗読者:鹿島俊裕
43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
天正十五年(一五八七)十月一日、京都北野の森において催された、いわゆる北野大茶湯(宇喜多一蕙画 北野大茶湯図)は、よかれあしかれ、空前にして絶後の規模をもつ大茶会であった。
いま、この茶会を演劇にたとえて言えば、その主催者兼興行主は秀吉(重要文化財 伝狩野光信筆 豊臣秀吉画像・重要文化財 醍醐花見図屏風 第二扇 花見を楽しむ秀吉と北政所)であり、演出主任兼主役の一人が利休(重要文化財 伝長谷川等伯画 古渓宋陳賛 千利休像)であった。また、これを建築にたとえて言えば、秀吉は施主に当り、利休は設計者兼施工者の一人に当っていた。ところで、演劇における「主催者ないし興行主」と「演出家ないし俳優」、または、建築における「施主」と「設計者ないし施工者」、とは、いつも全き一致協力の関係にあるとは限らない。両者の間に亀裂の生じ、軋轢の起ることは、われわれが常に見聞し、経験するところである。
では、北野大茶湯における秀吉と利休との関係はどうであったか。
われわれはまず、大茶湯開催に先立ってその趣意・方針を衆知させるため出された定書(北野天満宮蔵)を、二つ読んでみることにしよう。いずれも後世の模作と見られるが、内容は典拠あるものである。
(その一)
御 定 之 事
一於北野森、十月朔日より十日之間ニ、天気次第ニ可被成御茶湯御沙汰ニ付而、御名物共不残被作相揃、数寄執心之者ニ可被作見ために、如此被作相催候事、
一茶湯執心之者は、若党、町人、百姓已下ニよらず、釜壱ツ、つるべ壱ツ、のみ物壱、茶はこがしにてもくるしからず候、ひつさげ来可然事、
一座鋪之義者、松原にて候条、畳二でう、但、佗者はとぢ付、いなばきニても不苦候事、
一遠国之者迄可被作見之儀、十月十日迄日限御延被成候事、
右之段 仰出之儀、佗者をふびんニ思召候処、此度不罷出者は、向後におゐてこがしをもたて候儀無用との御意見ニ候、不罷出者之所へ参候族迄もぬるものたるべき事、
附 遠国の者ニよらず御手前ニ而御茶可被下旨被仰候事、
福原右馬允
蒔田 權介
奉行 中江式部太輔
木下大膳亮
宮木右京大夫
(その二)
来ル十月朔日、於北野松原可令興行茶湯候、不寄于貴賤、不拘于貧富、望之面々、令来会可催一興、禁美麗、好倹約、営ミ可申候、秀吉数十年求置候諸具可置餝立候条、望次第ニ可見物者也、
天正十五年八月
その一には日付がないが、久田宗悦自筆の大茶湯記録に載せるほぼ同じ文面の定書に、天正十五年七月二十九日の日付がある。
二つの定書を一読して、われわれは、この催しに、方向を異にする二つの志向のあるのに気づく。一つは、壮大・豪奢への志向であり、いま一つはわびへの志向である。
壮大・豪奢への志向はいかなるところに見られるであろうか。
まず第一に、茶湯の会場として、北野松原という宏大な場所が選ばれたところに、それはうかがわれる。
第二に、「若党、町人、百姓已下ニよらず」「貴賤によらず、貧富にかかわらず」というように、あらゆる階層の数寄者を、全国津々浦々から召し寄せようとする大規模な構想において、それは見られる。『群書類従』に収める『北野大茶湯記』の定書には、
日本之儀は不及申、数寄心懸有之ものは、唐国の者までも可罷出候事、
という条がある。日本国のみならず、唐国の者にまで参会を呼掛けているのである。いささかこけおどしの感なきにしもあらずであるけれども、ともかく気宇の壮大さは、いかにも桃山時代らしい。
壮大・豪奢への志向は、第三に、「御名物共不残被作相揃」「秀吉数十年求置候諸具可置餝立候条」というように、秀吉が多年にわたって蒐集したおびただしい名器名物を、ことごとく並べて飾る、という大仰な趣向に見られる。秀吉以外の参加者も、競って秘蔵の名器名物を持参して、めいめいの席に出したことであろう。もっとも、『長闇堂記』に、「内々には諸方の名物をも召あげらるべき取沙汰」云々とあるから、秀吉がこの機にいわゆる名物狩りをするのでは……との懸念から、名物の出し惜しみをする向もあったかも知れぬけれども、大方は、この一世一代の盛儀のために、自慢の名器を持寄ったことであろう。その様を古書は、
伝持し墨跡、花びん、茶つぼ、花入、水さし、茶わん、茶しやく、様々の器物、唐物大和の価高き物共、此時、面々取出し、此会にと出せり、(『豊鑑』)
和漢の珍器、古今の名聖の墨跡、家々の重宝ども、此時出さずばいつをか期すべき、われも〳〵と底を尽して見ゑにける、(『室町殿日記』)
などと伝えている。利休も、九月二十五日付、堺の数寄者に宛てた書状で、「秘蔵」の茶入を用意して上洛するよう、うながしている。かくて、大茶湯の当日、北野の松原は、まことに壮大にして豪奢な、名器名物の一大展示会場の観を呈したのであった。
定書からだけではわからないが、久田宗悦自筆の記録によると、北野大茶湯会場には「金之御座敷」があり、その中の「御棚之内」には、「金之御道具」が飾られていた。これも、この催しの、豪奢への志向を端的に示す一例である。
北野大茶湯には、壮大・豪奢への志向と並んで、わびへの志向が見られる。定書の中には、「佗者はとぢ付、いなばきニても不苦」とか、「佗者をふびんニ思召候処」というように、佗者への呼びかけがあるし、また同じく定書の中の「釜壱ツ、つるべ壱ツ、のみ物壱、茶はこがしにてもくるしからず候」「とぢ付、いなばきニても不苦候」「禁美麗、好倹約」というようなところは、明らかにわびへの志向を示していると見てよい。
さて、大茶湯の茶会は、三日前の二十八日に、既に八百餘つくられていたといい(『兼見卿記』)、当日は千五六百もあったという(『多聞院日記』)。このおびただしい茶屋の亭主たちの中で、当日、最も面目をほどこしたのは、美濃の一化なる佗数寄者であった。『松屋会記』には、これにつき、次の如くある。
一大閤様へ御茶ハ、惣一佗ノ茶屋ニ テ 御茶上リ候也、美濃国一クワト云仁也、茶屋共ノコリナク御ランナサレ候得共、御茶ハ只一所ニ テ 上リ申候、
すなわち、秀吉は全部の茶屋を見てまわったけれども、茶を飲んだのはただ一ケ所、一化の茶屋においてのみであり、その茶屋とは「惣一佗の茶屋」であったのである。彼の亭主振りは、『長闇堂記』が、いきいきと伝えている。
松原中のかこひ、おもひ〳〵の品々ある中にも覚へ侍しは、引のき小松原有所に、美濃の国の一人、芝より草ふきあげ、内二帖敷、間中四方砂まき、一帖敷のこる所に、瓦にてふちし、囲炉に釜かけ、かよひ口のうちに主人居て、垣に柄杓かけ、瓶子の蓋茶椀に丸服部を入て、それにこがしを用意せり、(中略)さて御膳すぎ、昼前より御出有て、一所も不残御覧ぜし時、かの美濃の国の人、その名は一化、松葉をかこひのわきにてふすべ、其煙立のぼりしが、秀吉公、右より御存知の由にて、一服と御意あれば、則、そのこがしを上奉る、御機嫌殊勝にして、御手にもたせられし白の扇を拝領して、今日一の冥加とぞいひし、
これによれば、一化の茶屋の造作も、その亭主振りも、またおそらくは秀吉の客振りも、わびへの志向を強く示したものであった。
この日、一化に次いで面目をほどこしたのは、丿貫(富岡鉄斎筆 北野大茶湯図 部分)であった。『長闇堂記』は、
へちくわんと云し者、一間半の大傘を朱ぬりにし、柄を七尺計にして、二尺程間をおき、よしがきにてかこひし、照日にかの朱傘かゞやきわたり、人の目をおどろかせり、是も一入興に入せ給ひて、則、諸役御免をくだされ、
と伝える。丿貫は、上京坂本屋の出身、一渓道三の娘婿で初め如夢観と号したが、後に、人に及ばずという心で人の字の偏である丿の字を取って丿貫と号したと伝えられる(『老人雑話』)人物である。茶は紹鷗に学んだという。利休を茶に招いて、おとし穴に落したというような「をどけたる茶」(『老人雑話』)や、さまざまな奇行で世に知られる。『源流茶話』には、
丿貫ハ佗ずきにて、しゐて茶法にもかゝハらず、器軸をも持ず、一向自適を趣とす、にじり上りの口ニ新焼の茶壺をかざりて、関守と号す、異風なれ共、いさぎよき佗数寄なれバ、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也、
とある。典型的な佗者だったのである。このような茶人が、大いに面目をほどこしたというところにも、大茶湯のわびへの志向がよく出ていると言えるであろう。
このように、北野大茶湯には、壮大・豪奢への志向と、わびへの志向とがあった。そして、秀吉対利休という図式を考えるとき、ふつうは、壮大・豪奢への志向は秀吉的なもの、わびへの志向は利休的なもの、というように考えられやすい。ひいて、北野大茶湯における壮大・豪奢への志向は秀吉の好みの反映、わびへの志向は利休の好みの反映、というように考えられやすい。たしかに、視点を遠方に置いて秀吉・利休の二人を比較対照すると、秀吉は、どちらかと言えば、壮大・豪奢を志向する方向に、より強く傾き、利休は、どちらかと言えば、わびを志向する方向に、より強く傾いているとは言える。しかし、視点を近づけて精細に考察すると、そのような単純な割り切り方はできなくなってくる。すなわち、秀吉にもわびへの志向が強くあり、利休にも壮大・豪奢なるものを積極的に肯定するところがあった。そしてそれが、北野大茶湯にも反映していた、と考えざるを得なくなってくるのである。そのことを、以下に述べてみよう。
朗読者
鹿島俊裕
狂言師/佐藤友彦に師事、狂言共同社 ―本書の朗読で古語や漢詩の箇所を読まれ「そういった文章は間狂言という場面の「アイ」の役の語りに多いので馴染みがあります」とのこと。狂言調に読まれる部分は本業の仕事が見えて興味深く聞いていただけます。(櫻)
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび