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朗読者:天野鎭雄
28.宇治橋三の間の名水から竹生島へ
宇治平等院の近くに架かる宇治橋の三の間には、いつの頃からか張出しが作られ(宇治橋の図 『都名所図会』巻五所載)、現在もそれはある。この張出しは、元来、「橋姫」を祀るための場所であったらしいが、誰が言い出したのか、ここから汲み上げる水が茶によく合うとの評判が立った。やがては、『指月集』に「京にては醒井、柳の水、宇治にてハ三ノ間」とあるように、宇治橋三の間の水は、京の醒ヶ井の水(佐女牛井(醒ヶ井)の図 『都名所図会』巻二所載)、柳の水(柳の水の図 『都名所図会』巻一所載)と並ぶ茶の名水に数えられるようになった。秀吉も伏見在城の折は、日々これを愛用したという。水の味は、清白にして軽しと評されていた。
宇治橋三の間の水が名水である所以を説明する諸説の中に、竹生島辯才天の社壇の下から湧き出す霊水がここに流れ来るのだ、というものがあった。そこで我々も、この名水の流れをさかのぼって、竹生島を訪ねてみることにしよう。
琵琶湖の北辺に浮ぶ竹生島は、明媚な風光で知られた島であるとともに、豊富な伝説に彩られた島でもある。いま試みに、「竹生島」という島名の起源に関する伝説のいくつかを紹介してみよう。(一)孝霊天皇の代、浅井姫命が高天原から湖中に下り、島を作って諸鳥をして植物の種子を落させたところ、最初に竹が生えてきた。そこでこの島を竹生島と命名した。(二)浅井姫命が島を作った時、「つぶつぶ」と水音がした。これがなまって「竹生島」となった。(三)僧行基がこの島に来て、手にしていた竹杖を地に立て、もしこの島が三宝住持の地であるならば、その証に竹を生長させるよう祈願したところ、根や葉を生し、そこに生い出でた竹の如くなったので、竹生島と名づけた。(四)役小角がこの島に参籠して満願の日、所持せる竹杖を地に立てたところ、両幹同根の竹を生ずる奇瑞があらわれた。そこで行者はこの島を竹生島と名づけた。
このように伝説の島である竹生島は、また古くから朝野の人々の信仰を集めた、信仰の島でもあった。すなわちこの島は、つとに千手観音の霊場として知られ、また辯才天信仰の一中心地でもあった。竹生島宝巌寺は西国三十三所の一つに数えられており、竹生島辯才天は、日本三辯才天の一つに数えられていた(他の二つは厳島と江ノ島の辯才天)。信仰の島であったが故に、多くの伝説を生じ、また伝説の流布がいっそう信仰を広めたのであった。宇治の茶の名水と竹生島辯才天という、一見唐突な組合せの伝説が生れるには、このような背景があったのである。
朗読者
天野鎭雄
俳優/1936年愛知生まれ。愛知県NHK名古屋放送劇団、文学座研究生、「山本安英の会」など経て、劇団「劇座」代表。ラジオのパーソナリティーを務め「アマチン」の愛称で親しまれる。愛知県芸術文化選奨賞等受賞。―桃山文化を、細かく深く見た言葉を語るわけですが、自由はつらつでいいのではないかと、思い読んでいます。
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび