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朗読者:柴川菜月
21.伊勢物語絵、源氏物語絵
異国の文物の流入や異国人の渡来によって、求新の心がどれほど強く動かされようとも、それによって懐古の心が消えないのは、今も昔も変りない。否、新しきものへの憧れが強ければ強いだけ、反って古きものへの哀惜が強まるのが、むしろ人情の自然である。桃山時代においても、強き求新の心の反面に強き懐古の心があり、それが美術の上にも具現していた。絵画について言えば、懐古の心の目立った現れの一つは、王朝文学にテーマを求めることであった。なかんずく、『伊勢物語』と『源氏物語』から多くの題材が取られた。

大和文華館所蔵
南蛮屛風と並べて掲げたのは、俵屋宗達筆と伝えられる益田家旧蔵・伊勢物語図である。この絵は寛永年間後期以降の作品とみられ、画風から言っても、桃山に含めるのは少し無理であるが、見る程に深まる情趣捨て難く、懐古の心の表現の一例として取上げることにした。
絵の上部に、流麗な筆致で、
女のえうましかりけるを としをへてよはひわたりけるを からうしてぬすみ出て いとくらきに来けり
とある。これは『伊勢物語』第六段中の文である。まずこの段のあらすじを紹介してみよう。
昔一人の男がいた、この男が思いを寄せる女がいたが、とても手に入れられそうになかった。それでも長年通って、とうとうある夜、どうにか連れ出すことに成功し、暗がりの中、芥川という川までやってきた。川辺の草の上に白露が光っているのを女が見て、「あれは何?」ときいたが、男は答えなかった。夜ふけて暗い上、折から雷が鳴り雨まで降り出した。かたわらに、戸締りしてない蔵があったので、ここで夜明けを待つこととし、女を奥に入れて、男は弓矢を持って戸口で見張りをしていた。ところがこの蔵は、鬼の棲家であった。男が戸口で、はやく夜が明ければよいと思っている間に、鬼は、女を一口に喰ってしまった。「あれえ!」という女の悲鳴も、雷鳴にまぎれて男には聞えなかった。あたりがようやく白んできた頃、男が蔵の中をのぞくと、女の影もない。地だんだ踏んで泣いたが、どうにもならなかった。そのとき男の詠んだ歌、
白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを
(女が「あれは白玉か何かなの?」と問うた時、「露だよ」と答えて、露のように消えてしまったらよかったのに)
画面は今しも男が女を背負って芥川にさしかかった所をあらわす。女は力なく男の背に身をゆだね、男はうしろ手に女の体をひしと抱き寄せる。見交わす二つのふくよかな白い顔が印象的である。女が草の葉の露を見て、「あれは何?」と問う。一見、緊迫したその場におよそそぐわぬこの問に、喜びと不安に震える女心のときめきが露呈する。ここで、「あれは露だよ」などと答えるような男なら、『伊勢物語』の主人公にはなれない。男は振りむいて女の顔を見、無言のまま腕に力を込めて女の体をいっそう強く引き寄せる。それが、ここで男にできる最上の答である。この絵は、まさにそういう瞬間を、見事に描いた秀作である。
連れ出した女が、雷鳴のとどろく暗がりで鬼に喰われてしまった―それは一場の夢物語であるが、この絵も、そういう物語にふさわしい夢幻的情趣を豊かに漂わせている。たゆとう水の流れ、重なり合った、まるで生き物のような土坡、金地の色、これらが相寄って夢幻的効果をいっそう深める。これはまさしく幽玄な三番目能の世界であり、また夢幻能の世界でもある。
『源氏物語』に題材を求めた桃山絵画にも、数々の名作がある。中でも、御物の伝狩野永徳筆のもの(御物 伝狩野永徳筆 源氏物語図屏風 左隻(若紫))、東京国立博物館の狩野山楽筆のもの(重要文化財 狩野山楽筆 車争図(源氏物語葵)屏風 部分)、静嘉堂の俵屋宗達筆のもの(国宝 俵屋宗達筆 源氏物語関屋澪標図屏風の内、澪標図 部分)がすぐれている。

朗読者
柴川菜月
舞踊家・むすめかぶき/花習会。市川櫻香に師事/能と歌舞伎に依る新作「新たいさんぷくん」、「景清」、NHK「父の花、咲く春」テレビドラマ出演。京都芸術大学通信教育部卒。本書の掲載作品の目録を作成、本の編纂にあたる。 ―朗読にあたり、伊勢物語の女の言葉に、男が答え、自分も消えてしまえばよかった。この言葉の意味を、著者倉澤先生にお聞きして、朗読に臨みました。
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび