倉澤先生に聞く
この掛け軸は久松真一先生がつくった短歌ですが、心茶というものを一種の歌にしたものなんですね。
お客さんと主がもうどちらが客でどちらが主かわからなくなるほどに睦ましくなる、そういうことが歌になっているのです。
櫻香
倉澤先生と初めてお目にかかってから7、8年になるでしょうか。
倉澤
もうそんなになりましたか。
櫻香
先生の『芸道の哲学』を、私の住んでいる町の古本屋さんで何気なく手に取りました。
難しくてなかなか読めないのですが、そばにおいておきたいと思ったのが先生との出会いでした。20代の後半でした。
その後、ご縁があって神戸の甲南女子大学で「身体表現」を教えることになりました。実演家ですので、先生のご本と世阿弥に助けていただいて授業をしております。先生の教え子の方が、教員でいらして、先生をご紹介いただきました。
倉澤
思いがけないことであなたと対面できることになりよかったですよ。
櫻香
先生にお会いし、毎月お話しをさせていただく時間の中で、自分も、芸能の道を行くも、ひとりであると考えることができるようになりました。ある時、私の持っていました先生の本に一筆をお願いしましたら「心のままに匂ひゆく」とお書きなられました。
倉澤
あぁ匂うね、そういえば何か書いたような記憶がありますね。
櫻香
こころが匂うという、実態のないもののことを、先生の本ではとても丁寧に書かれています。私にはとても難しくって、分かりにくいのですが、丁寧に先生が書かれていくのを読んでいくと、著者倉澤先生と読む側の間に何か交流が生まれるのです。
分からないと本を閉じる時もあれば、少し時間をおいて、ふと本を開くとこの間よりはちょっと分かった気がする。そういうキャッチボールを先生としているような気がしました。
倉澤
あなたのところへ行ってお話をさせていただいたことがありましたね。「匂う」ということを話題にしたような気がするんですよ。櫻香というあなたのお名前にくっつけてね。
櫻香
はい、そうでしたね、私どものお稽古場で、一般の方も参加できる講座の講師においでいただきました。私は、十二世市川團十郎先生から櫻香という名前をいただいているので、そのことから、お話しいただきました。
倉澤
そうそう、そこで使われている文字を、私が種にして「匂う」という話をした記憶があります。
櫻香
私は、舞踊家をさせていただき身体で表現する側として、実際に「香」があるわけではないのですが、踊りで表現をしていく中で、香りというものについて考えていました。
倉澤
そうそう、非常にいい名前だな、って思ってね、思い出しました。
櫻香
桜の花は、本当に皆さんに愛されて、私は2月ごろの桜が好きです。冬の桜を見るとこちらも頑張らなきゃと思う。枝が、冬の寒さの中で、うっすらほのかにピンクに見えて、桜の木全体のエネルギーを感じます。花は咲いていませんからまだ匂いもしなのですけれど、こちらは想像して、開花したときの香りのようなものも感じます。
倉澤
桜の花が出てくると特攻隊で花のように死んだ兄を思い出すんです。
いさぎよく散るという、それは戦争で潔く死ななくては、ならんかったそういう兄のことを思い出すんですね。
櫻香
おいくつ違いでいらしたのですか。
倉澤
私はね、男ばかりの5人兄弟でね。その特攻隊で亡くなった兄が一番上の兄なんでね、私が末っ子なんです。
その兄とは、20年くらい年が違ってるんですね。子供の頃に、よくその兄におんぶされ、あちこち行ったりして、その兄については思い出深くってね。兄は、父親、母親に遺言状を書いて、それで特攻隊での飛行機で突っ込んじゃったんですね。
戦争の話が出るたびに、その遺言状の中の字句を、すぐに思い出して、同時に兄の背におんぶされては、蛍狩りに行ったりした記憶が思い出されるんですよ。
あなたの名前にも何かいわくがありそうな名前だと思いますが。
櫻香
はい、私の櫻香の名は、先生でもある方々との思い出と、その感謝の気持ちもこめた名前にだんだんとなるのを感じます。市川家にゆかりのあることもまた「助六」や「道成寺」の演目への思いもあります。
差し支えなければ、先生のお兄様の遺された手紙の字句などについて。
倉澤
それは特攻隊の兄の、辞世の手紙とかね、頭の中で覚えていて、今でも目の前にありありと思い浮かべることが出きるんですけど、それをね、何か語ることが、非常にね…。
「われ今壮途につかんとす。生還を期せず。これまでの不幸御ゆるし下されたく…」
櫻香
言葉が心に押し込められることとは、こういうことなのですね。
先生は長野県がご出身ですね。
倉澤
そうです。
櫻香
私は、先生に、櫻香さんは郷土愛が強いからってよく言われますけど。私の郷土愛は、郷土を愛している感覚ではなくて、郷土そのものが私のなかにあり、郷土でないところと、郷土であるところの境がないのです。愛知を軸にしているのですが、日本という国の中の愛知として、他の土地との隔たりがあまりないのです。
倉澤
生まれ育った故郷というものは、多かれ少なかれ、私の中でずっと残っていますね。
長野で生まれ育ったことが、今も私の話すこと、することの中に、どこかひっかかってくるのですね。私の生まれ故郷は、長野県の中でも一番南の方で、東側に南アルプスが見えていて、反対側に中央アルプスが見えていて、両方に囲まれて谷間になっているんですね、伊那谷という谷間に生まれ、日本アルプスを眺めて育った、そのことはやっぱり一生消えない、ついてまわるんですね。
そのことを今思い出すと故郷は、いつまでも私の故郷で、私の中に入っている。そういう感じがする。あなたにもやっぱりそういうところがある、生まれ故郷の何かがいかにもその人だという。
櫻香
先生が深く重く郷土の長野を感じられていられるのをはじめてお聞きしました。
先生のように長野で豊かな自然というものが目の前にあるのと違い、私は、伝統芸能の表現者たちや研究者の中で育ちました、目の前に、山や川があるというような自然はございませんが、日々伝統のことを一生懸命やってらっしゃる方々の姿、その情景が私の自然の環境でした。その人達が、夢中に取り組む、考える、論じる、その空気が私の故郷です。
先生に、以前「文化遺産とはどういうものとお考えでしょうか」とお電話で伺いました時に、先生は「文化遺産は、美しくなければならない」とはっきりおっしゃいました。
故郷と師から受け継ぐ
倉澤
文化遺産、遺産として遺っているものに何らかの影響を受けながら、自分も育ってきているんです。それはもう、実際にどうかということよりも、そうあるべき、そうあって欲しいという願望もこもって、伝統はいいもので、そのいいものが私の中に伝わっているのだ、と思いたい、ということも若干あります。ありますけど、しかし、実際よく考えてみますと、生まれ育った環境の中で長年そこで培われた伝統がずっと自分の中に染み込んでいるわけですから、それを、ひとつは、その伝統に感謝して、それをまた、何らかの形で生かしていくようにしなければいけないという、これは、故郷に対する懐かしさと同時に、育ててくれた、その故郷への恩返しをせんならん、という気持ちもあるんですよ。
私はあなたの中にもそうゆうふうな、感謝の念と恩返しの気持ちがあるだろうと思って、その気持ちが何となく分かるから後押しをしようと思うのです。
櫻香
有難いことです。いろんなことを教えていただいても、まだまだ未熟な、まして若い頃の私は、分からないことさえ、分からない。先生の本も、何回も閉じるのです。本は、書き残るので良いのですけど、言葉も所作も私たちのしていることは、その場で消えて無くなるものです。倒れてしまうほどに教えてくださった先生や、車椅子でお稽古を見てくださる先生、病床から、私に生きる姿勢を伝えてくださる團十郎先生の姿、そういう先生方からそれこそ沢山いただいているのに、お応えすることができない。先生が逝かれてしまっても自分の中で、先生とのやり取りが、ずっと続いているのです。生きていられる間にもう少し分かっていれば、と思うと、申し訳なく思うのです。分かろうとしているのです、生きている間に、何とか少しぐらいは、恩返しになれますようにと願っている自分がいます。
その点で先生がお書きになっている本は、とても大切なものです。本を開いては繰り返し、お話をうかがい、著者と対話しながら考えてゆけます、時代も年齢も越えてゆけるのは有難いことに思います。
先生は気づかせるということを、お教えくださいました。そのことをお聞かせください。
倉澤
気づくというのは、面白いものですね。何かね。ふと気づくこと、あなたもそうでしょうけれど、それが何かすーっと自分の師匠、先生に結びついてゆくのですね。何気なしに気づいたことが、「あっこれは、あの先生がおっしゃっていたこと」ということがよくあるんですよ。はっきりと、気づいていないんだけれども、深いところで師匠や先生が良き影響を与えてくれているということは、この年になっても今も感じますね。久松真一先生なんかもそうですしね、西谷啓治先生、小林太市郎先生、そういう師から知らないうちに植え込まれたものがあってね。それが折々に思い出されてくる。あなたもそうでしょう。
櫻香
はい、私にもあります。いつもそばにいてくれていて、すっと考えをまとめてくれたりします。いろいろな先生が総動員してくれているようにも思いまして、本当に感謝しています。そういったことは匂いに例えて考えられます。
倉澤
そうですね。
櫻香
着物に香を焚き染めるように。
倉澤
そういうことなんですよ。
本当に。私にしては、久松先生、それから西谷先生、神戸大学でお世話になった小林先生、それから、私の『芸道の哲学』の出版までお世話になった武内義範先生、この4人の先生がやっぱり、いつまでもいつまでも私の中に生きていて、時々その生きている先生に叱られたりしてね。
櫻香
生まれたところが伝統芸能のお稽古場ですから、先生のお話は私にはとても身近です。
先生は、はじめ東洋の哲学を研究され、この何百年もの間、世界を動かすのは西洋だから西洋の哲学もされたのですね。
倉澤
そうなんですね、高校の後半から大学に入った時期、1年生の頃までは東洋史を勉強するつもりでしたが、京大に入って、しばらくして、クラブのポスターがはってあってね、私の故郷から京大に入った友人が、これ面白そうだから入ってみないか、と言うんですね。
心茶会なんですよ。「茶の湯」のことは分からないけれども、高校生時代に鈴木大拙の本を読んでいるときに茶のことが出てきてね、そんなことも記憶にあったんで「じゃあ入ろうか」ということで、茶のことが好きということではなく入ってね。お茶を飲んで楽しむ、はじめはそんなつもりで入ったところ、これが、どういたしまして、すごく厳しいんだよ。
櫻香
座禅からはじまるのですね。
倉澤
そうです、週に1回、修行がありまして、何をするかというと、授業がすんで裏千家に行って、3時間修行をするんですよ。1時間は座禅、あとの2時間が点前の稽古なんですね。その座禅の時がね、これがもう予想外のことでしてね。裏千家に利休堂というのがありましてね、そこで1時間座禅をするんです。座禅というのでこちらは趺座と思っていたら、茶室で座らなければならないから正座の座禅なんですよ。一旦座ったら動いてはいけない。
これが心茶会に入った茶の始まりなんです。やっているうちに、茶道というのが奥行きのある素晴らしい文化と知ったのです。
櫻香
先生は、そこで、芸術学、哲学、日本学を研究するなか、茶道研究をされていくわけですね。お稽古場というものは、お稽古以外の物音をたててはいけない、まして、その場で寛ぐ姿などしようものならば、大変なことになるわけです。先生は、大学時代に貴重な経験をなさったのですね。
倉澤
そういったなかで、大学2年生の頃、私に迷いが生じたんですよ。それは、私の中にいわゆる人生問題が深刻に入り込んできてね、今から思ったらそんなことそんなに悩まんでもよかったんだけど、その時は深刻でね。要するに「俺はいったい将来本当は何をしたいのか、何をするべきなのか」、何となく東洋史と思ったけれども、それでいいんだろうかと、いろいろ考えるようになってね、そして、やっぱり歴史の前に、もっと人間のあるべきあり方、それをきちっと押さえんことにはそんな簡単に将来を決めてはいけないと、いわゆる「人生問題」に悩んで、いろいろやっているところに、心茶会の厳しい修行の稽古のときと重なってね、その頃、心茶会の会長をしておられるのが、久松真一先生でした。その久松先生に少しずつ親しくお教えを受けるようになってね。「やあ先生は素晴らしい」と。そこで、また、いろいろと考えていく時に、西谷先生の『ニヒリズム』をたまたま図書館で借りて読んで、私が悩んでいるような、まさにそのことが書かれているんです。
櫻香
生きるとは何か。
倉澤
そういうことです。基本的には、極め付きの回答をえようとすれば、どうしても哲学の方にいくんですね。幸い京大には、ずっと哲学のいい先生がいるんですね。
櫻香
最初は、先生は東洋史のご研究を考えられていたのに、大学に入りそこで哲学にゆかれる、そのきっかけが、人生について悩まれたことなのですね。
倉澤
心茶会の久松先生、文学部の西谷先生、武内先生、芸術学の小林先生は、みな京大の西田幾多郎の哲学につながっているんです。ですから、進んでそこにいったということもありますが、なんとなくそこに自然に吸い込まれていったということなのです。
櫻香
悩みがきっかけで吸い込まれていくわけですから、悩みは大切ですね。
倉澤
そして、片っ方では哲学の勉強をし、片っ方ではお茶の勉強をしということがずっと続きました。大学から大学院に入ってからも、また神戸大学に仕事に就いてからも、ずっとそれが続いていく、善かれ悪しかれ、染み込んでいきました。
櫻香
先生のご本、この『桃山の美とこころ』にも、師弟の関係を大切にとらえて5章〈閑寂と変化〉に書かれた「大黒」から「小原木」そして「松風」に向かう流れは、何にも分からない私にも、それらの茶碗をみると利休から弟子織部への道が見えます。
利休と師である古渓宗陳の関係もあたたかいものを感じます。師弟の関係は言葉にならないものがありますが、先生、本からもそのことがよく分かります。
表紙の長谷川等伯の「楓図」のことも、第三章の〈花と雪間の草〉で先生が「冷えの美」を書かれていますが、この章で中世的な冷えの美を基調としつつも、あたたかさを含んでいることをお書きになっています。このあたりの感覚も、言葉にならない点を作品から感じることができます。〈雪間の草〉という章段のタイトルも、身体的に想像が深まっていく。
「桜図」を描いた、等伯の息子は、実はこの絵を描き上げてすぐに亡くなってしまうのです。息子を失った、父であり師の等伯の、その悲しみが「楓図」をかきあげていますのも、精神と身体が、突然の環境に向かい、その壮絶を絵にたたき込める、それがどんなものか絵を見ると分かります。
利休の竹一重切花入「園城寺」の持つ「冷え」の中にも同じことが言えます。身も恐ろしく震え上がるなかに、熱さのようなものがありそれが雪を溶かしていくのです。特別な作品は、人の特別な沸点を感じさせます。作品から根本を見ることを先生がこの本で教えておられる。それは先生の先生からの教えなのでしょうか。
倉澤
芸能の世界なんかは特にね、体を使って身をもって覚えてゆくからいいけれども、学問の世界はね、専ら頭を使うのでね、体はある意味ではどうでもいいというところがあります。だけれども、本当の教育というのはね、頭だけでなくって全身全霊をあげて教育する、また学ぶ方も、全身全霊で学ぶというそれが本当の教育だと私は思っているんですね。それは、今、学問の世界ではほとんど消えてしまって頭だけであって、それが芸能の方にも悪い影響を及ぼしてね。芸能をやってる人が、形で止まっている。もうひとつ奥のところを師匠の方は伝えようとする、弟子の方も学ぼうとする。そういう気風が、非常に薄くなってきていてね、今、それは問題だと思いますね。
櫻香
私どものように芸能を身体で学ぶ者も、振りや型を覚え、台詞を覚えればいいのであれば、録画したものでいいわけですが、そうではなくて、日々に理論も体も均衡させていく。しかし実際に踊る時には、それが邪魔になるという程度ではいけないと思います。毛穴からほとばしるものがないといけないとか。腰を中心にして四方に引っ張られる力とか、舞台と自分が根でつながっているなど、聞くだけではとうてい理解できません。そこに、なぜ私はそれをせねばならないか、そこに行きつくことが大切に思うのです。先生が『芸道の哲学』で胸中の綺麗を説明されています。とても大切なことです。中世芸論が一様に指示している行き方も書かれてありました。
「修行者がいかなる姿から着手すべきであるのか。それは、やさしい、すなおな、のどやかな、あたたかな、美しい、正しい姿からである」と。
倉澤
本当の芸術の伝授というのは技を伝えたらそれでいいというものではない、これは、教える方も学ぶ方もそこは、心に刻んでおかないといけないと思うんですね。
櫻香
先生の書かれているものは、遠くから丁寧に、軸に向かって書かれて、軸のところは、自分で考えるようになっているように思うのです。
倉澤
それは、書く方も、世阿弥なども難しいことが書かれてますが、やっぱり文字づらを追っているだけでは分からない、その奥までね。書く方もそれを意識しているし、勉強する方も、そのつもりになって読まないといけないですね。書かれていることを、ただ理屈として頭の中に入れたとしてもしょうがないんでね、それが実際の自分の生き方に反映してこないといけないという、これは日本の芸能の実はその伝統があるんだけども、学問でもそうなんですけど、その伝統がだんだんだんだん希薄になってきている。そこが今のすべての教育の大きな問題だと私は思っているんです。あなたみたいな実際に芸をやる人は、これは言われなくっても分かることだけども、芸の技術を教えるだけではなくて、人間を教えるということが必要になってくるんですね。
櫻香
教える側も教わっている感じでして。
倉澤
おのずから伝わっていけばいいんですね。わざわざ教えるというわけではなくって。
櫻香
そういう点で先生のご本が、年数をかけて分かっていく、開けたり閉じたりして年数をかけてゆく、すべての良い作品というのはそういうものなんでしょう。
倉澤
日本の芸道論は面白いことをいいますね、誰がいつから言い始めたか知りませんが「守る」「破る」「離れる」、守破離ってあれは、本当の教育ということについて大事な心掛けですね。守って、破って、それから離れる、今でも教育の現場で実践していくべきことだといつも思っています。
尾張三河が育んだ桃山文化
櫻香
桃山文化が、信長、秀吉、家康によってつくられたことをどう思われますか。
倉澤
あの桃山という時代をつくるにあたり、その三人が影響を与えたわけですね。しかし、その影響の仕方は、信長はその大きな変化をつくるのを目に見える実力行使でやっていった。秀吉は、また、あの人はいろんな人生経験を積んで、人間を動かすことが上手な人でね。大勢な人を集めて新しいものをつくっていくことに良かれ悪しかれ大きな貢献をしているんですね、そして家康は、あんまり自分が真正面に出ないで部下を上手に使って、ものをつくってゆく。それが上手な人で、信長、秀吉がつくった新しい時代への方向を自分が中心だけれどもそれを必ずしも外に出さないで、優れた部下を使って新しい時代をつくっていったんですね。
そういう三人三様の仕方でいい時代をつくる上で貢献したと言えるんです。三人の性格の違いをこんな言葉で言い表した人がいるんですよ。有名な話ですがホトトギスをいい声で鳴いてほしいというときにですね、信長だと「鳴かずば殺してしまえ」、秀吉は「鳴くようにしてやろう」、家康が「鳴くまで待とう」。誰が言い出したか分からないがこの三人をよく表していると思っているのですよ。また違った性格の三人がリーダーになったお陰で室町時代から江戸時代の転換がいい方向にできたんだと。
櫻香
三人の天下人の「茶の湯」「能」が「武道」を含めた「芸道」を明確ではないが自覚していたという先生のお話をお聞かせください。
倉澤
そうですね。武術では昔から技と同様にこころを磨くことが重要とされています。共通して能も茶の湯も形からこころを学び、また、こころから形を学びますが、そのことを「姿からこころへ、こころから姿へ」といい、芸道の道とされます。信長も秀吉も家康も、それを自覚していたと言えます。秀吉の場合は、修羅場を踏んで平和をもたらしたわけですから、技とこころを学ぶ大切さを知っているんです。秀吉は、最後の城、伏見城の中に、学問所というものを作っています。家来にもそのことを勉強させようとしているんですね
櫻香
先生が郷土の長野が自分の中に染みているというお話をされましたが、あの三人も同じ郷土であるわけです。精神的にそのことが関係していると思いますが、先生はどう思われますか。
倉澤
それはあるでしょうね。目に見えないところでね。
櫻香
天下人のあの三人がとても自由にふるまうのですがあの三人の自由さというのは、たんに武家ではなく、勿論、公家ではなく、なんでしょうね、とても面白く感じられますが。
倉澤
あの時代はね、とにかく中世という時代が行き詰って、その新しい時代に、行かなければならないという歴史的必然があって、どうしても、中世の延長のようなそういうことではもういけないという、そういう時にでくわしてですね。その従来の伝統がそのまま生かせない、大きな視野で従来の伝統をすっぽり受け入れるか、または蹴とばすか、とにかく強力な力がいるというところに、その時代の生みの子である信長が出てきたんですね。
従来の鎌倉、室町時代は「中世」というふうに位置づけるんですね。奈良、平安時代が「古代」、そこから、「近世」に移るんですが、今から言えば、江戸時代に入るんですけれども、「中世」という時代から、「近世」という新しい時代に、展開してゆく、古代・中世で蓄積された日本の文化の成果を生かしながら新しい時代に展開していかざるをえないという状況、もう古代・中世的なものがにっちもさっもいかない、強力なリーダーがどうしても必要だったときに現れたのが、『信長』。まさにあれは、あの時代の申し子ですよ、信長は、中世に生きていたら、あんな活躍はしなかったし、江戸時代になってからでも、活躍できなかったですね。まさにその時代が要請した、そういう人物として現れて、また、その通りの働きをしたんですね。
櫻香
この時代に芸術に結び付けていく精神が面白いですし、新たな時代を求められている今にとり、興味深く勉強になるところがあります。
倉澤
あなたがいつも言っている、その三人が、今の日本の中央から生まれてきたというのはこれは偶然ではないですね。そういう長い日本の文化の中心であった京都、そして鎌倉の地域があり、その間にあって偶然というより地理的なこともあると思いますね。
櫻香
公家の京都、武家の鎌倉、その間である尾張三河に桃山があるという、その見方で考えると確かに偶然ではないですね。
倉澤
そこの出身である三人が、時代の要請に応えた仕事を遺してくれたのですね。
櫻香
風景も違いますね、都の自然と、尾張三河の自然と、鎌倉の自然と、それぞれの環境の違いというのは、文化に関わりますね。それがそのままその時代の文化に混じっていっているように感じました。
ですから、尾張三河に住んでいる私は、天下人三人が身近に感じられます。たんに、尾張三河出身者であるということではなく、桃山に生み出された、さまざまな芸術品を見ながら、その作品になにかしらん、私の見た風景の空気感のようなあたたかなものを感じるのです。
倉澤
歴史を大きく眺めてみますとね、時代があの三人を要求した。時代の要求に応じて出てきた。そういう面が強いですね。信長が、秀吉が、家康が、他の時代で生きていたら何の変哲もない、名前なんか残さない普通の人だったかもしれないけれども、何か神様が指名したかのように、その時代にぴったりの人が三人出てきて、大きな時代の変換が成し遂げられた。考えてみると何か不思議なことに見えてくる。
櫻香
本当ですね。それを芸術でいえば鎌倉時代に平家物語があって、平安時代では源氏物語があって、その中にこの桃山時代は両方、これまでを受け継ぎながら、先生のおっしゃる第4章の「豪壮と優婉」の花下遊楽図屏風に見ると、桃山時代が猛きものを求める一方に、嬰児が優しきものを求めるような、そんな今までにない自然な志向があり、また第11章に書かれた「冷えやさし」の感覚も、新たな文化を感じまた、そうではないこれまでの古代中世の感覚を感じます。それは、古代から中世の空気を表している「もののあわれ」を、さらに美しい芸術で表現されているように感じます。それはこれまでの文化とは違う自然観があるように思います。
倉澤
そうですね。古代から中世の文化を代表する言葉として「もののあわれ」というのは、大変その時代の空気をよく表していることですね。本居宣長が、そんなことを盛んに言ってます、実際そうだと思いますね。日本の長い歴史の中でも、桃山時代ほど様々なものが入り乱れている時代はなかったと思います。日本の歴史を大きな目で見てみると、そういう時代が必要だったんですね。何か、この三人が活躍したのは歴史の変化を求める何かが後ろにいて操っていたような気がするほどですね。
櫻香
それこそ先生、庶民の中から湧き出てくる、世の中から押し出されてきたんでしょうか。何かに応えるように押し出されてきた。民衆のエネルギーですね。
倉澤
そうそう、時代が生んだ子供という三人ですね。
櫻香
そういう意味では、この度、「桃山の美」に「こころ」とつけられたのは、まさにこの時代にもう一度「こころ」を通して「桃山の美」を観てみることが必要に感じます。
倉澤
そうですね、そういう大きな転換の時代に、さまざまな今までなかったような新たなものが入り乱れていくということから考えることもできますね。
櫻香
変化してはいけないもの、古代から中世まで変化がいろいろあっても、そこの中で変化してはいけない根本的なものというのは、この「こころ」という……。
倉澤
そういうことなんですね。
それをちょっと違った角度からいうと、変わる中で変わらない日本文化の伝統があるのですね。
歴史を見る時にね、どうしてもその時代に大きく変化してきたもの、それに目がいってそこがクローズアップされ、そういうことは当然のことですけれども、大きな変化にもかかわらず、底流として変化しないものがいつも続いてきている。時代とともに大きく変化するんだけれども、その変わらないものがある。または、変わってならないものがある。
そこに目をしっかり注いでいくことができるかどうか。これは芭蕉なんていう人は、そこに目を注いで、自分の俳諧の中に生かしていった、そういう意味で偉大な芸術家であったといえるんですね。ただ、その時代の動きの中に埋没するのでなくて、その時代の動きを受け止めながら、しかし、その時代だけでない、前の時代からずっと継続してきている大事なものを捉えていくということですね。江戸時代でいえば、芭蕉がその代表的な人で、ああいう人が、よき日本文化というものを継続させ、新しい文化を作っていくことに貢献したということがあるのですね。
櫻香
先生の書かれた『東洋と西洋』の本にも、西洋は、人間をとりまくすべて、自然や万物よりも人間が一段高いと書かれ、人間によって人間を支えようとした。しかし、それは成功しませんでした。ここであらためて、信長について考えますと、信長は見たことのない西洋の品々を手にしながら、これまでとは違った考え方や文化を感じ取っていたのではないでしょうか。
倉澤
古くからの東洋の文化は、中心になるものが人間ではなくて、自然なんです。
古代、中世と、東洋は、ずっと昔から根本を特徴づけてきたのは、人間も人間以外のものも皆一つという考えなんですね。
櫻香
自然を見ると心の中に湧き上がってくるもの、あの月を見て、コオロギの鳴く声を聞き、山を深く感じますと、私は20代の時に『山姥』という曲を、今後踊れる年齢まで毎年踊らせていただこうと決めたのです。そうすれば、この曲のことがいつか分かると信じていました。お能の方からの曲です。
倉澤
山姥が景色の話を語り、さらに深く人と重なる四季折々の日常を語ります。あれはまさに東洋的な、自然本位主義の一つの表れ方ですね。
櫻香
それこそ分からないままの20代でした。演じていくうちに詞章と曲の間にあるものに身体が引っ張られるというのでしょうか、それが自然と一体となる自分なのでしょうか、言葉では言えませんが、兎も角、四季折々を眺め、そのうちにその自然が自分なのか、境がなくなるように観ぜられていく、古典の曲にはそういう曲が多いのです。
倉澤
だから貴方のように舞台をやっていらっしゃる、その修行を積んで積んでやっていくんだけれどもその最後のところでは、自分が無くなってしまって、名人となるんですね。そこが、西洋の文化と違いがあってね。西洋の文化はやっぱり人間中心、だから言葉で言ったら人間中心主義。東洋は、それよりももっと根本的なものが自然ということなんですね。
櫻香
私にはたどり着く先は見えません。一生懸命です、ということしかないのです。
でも、その自然とひとつという感覚は、古典芸能やお茶の教授所に生まれ、ごく自然に感じていました。体で観じていくことなのです。皆さんもそういうことではないでしょうか。子供のままの自分が、風や雨や植物と遊び転げまわるような感覚です。
自分が自然と一つになる子供時代は、いつかこの宙にある塵となると観じていくために必要に思います。利休にしても、秀吉から切腹を命じられ命をなくしても、自分が無くなるわけではないという、そういう自分があったと思います。
團十郎先生もそうでした。そこに達していたのがよく分かりました。
桃山文化は、東洋の自然主義を根底にしながら、それまでにない文化を、三人の天下人の時代につくられました。その桃山文化の根底は、故郷。それは、決まった土地のことではなく、日本の古くからの自然と生きているというこころの故郷です。彼らを、時代が求め、時代が生んだという言葉を倉澤先生がおっしゃられていました。よく分かります。それまでとこれからを、山と見立て、その現実の山と想像の山の間をめがけ、勢いよく飛び込んだという活躍を観じます。信長、秀吉、家康、だけではなく、その荷担者の利休、そしてこの本にでてくるたくさんの人達、一緒に飛び込んでいったように思います。私は、この本から新たな時代を創るという気概をとても観じます。
倉澤先生、最後に一言お願いいたします。
倉澤
無。
西田幾多郎(一八七〇~一九四五):日本を代表する哲学者
久松真一(一八八九~一九八〇):日本の哲学者・仏教学者
西谷啓治(一九〇〇~一九九〇):日本の宗教哲学者
十二世市川團十郎(一九四六~二〇一三):歌舞伎役者
お話を終えて 市川櫻香
倉澤先生が最後に「無」と言われた。
先生は、対極という構図で桃山時代の人々を書かれ、私たちは、桃山芸術の成り立ちを身近にできました。そして、「倉澤先生に聞く」では先生の故郷や先生がどのように学ばれてこられたかを知ることができました。しかし先生が最後に「無」とおっしゃられたことで、更に私たちは考えることになりました。
多くのことやものを鑑賞し想像しながらこの本を読み、そしてまた、私たちは、本の終わりに、「無」という途方もない言葉を先生から聞く。ならば、即座にそのことを考え、これまで鑑賞した作品や文章を少し頭から宙に浮かせてみる。すると人間、元をたどればふわふわとしたアメーバーであることに気づくのです。
形という身体を得ることで、人となってはいるが、私たちは、その形を否定し自由になることができる。つまり、人は形で存在を意識しているが、「形のないものだと意識すると、私たちはもっと自由に想像できる」。倉澤先生は、研究者であり茶人であることを一つの乗物にし、そのようなことを、そこから広々と眺められている。
芸を求めていく者にとり、環境が乗物となっている。陶芸家も画家も家業である人にとり、生まれ育ったところが有難いことに伝承の教授場である。そして、家業と社会のおびただしい環境の違いをシャワーのように浴びていく。家と社会の違いを対立させながら、しかし所詮どちらも、受け止めざる得ない、良い環境に生まれ育ったと思えるまで時間がかかるのである。それは、対立からはじまり、何かと何かをつなぐことを自然に行うことに気付くまで、互換し混流し、またある時は仕分けし、そのようなことを身体的な感覚で行っていくのである。そのような私は、「尾張三河」は描かれてはいないが私には現されている事を感じる「桃山の美」を元に、この本の制作を行った。この本は、実は「歴史」と「道理」を芸術の根底におき、その「道理」を「こころ」として表している。桃山の空気を想像させながら、表現するものとしての、心によって、表現されているのである。歴史は、人々により作られ、そしてそこに現れてこない事実がある、それゆえ歴史には人々の葛藤がある。
ある時この本を「朗読」してみた。著者の心をお借りし読んでみると、面白いことに現れてこないものが現われてくる。現れないものが現されてくる。本に掲載された絵や書が語りかけてくるのである。そのことを倉澤先生に話すと、先生からは、「この本はね、平家物語のように書くつもりで書いたんだよ」と仰った。なるほど、朗読すると、あの美しい平家の公達を見るように、国宝、重文の作品を通して多くのこころが語りかけてくる。時には故郷を眺める信長や秀吉や等伯が現れたりする。そして読み終わると大切なものをもらう、それは何かわからないがあたたかな思いには違いない。考えると芸術からいつも「恐れることはない」と励まされてきた。芸術は多くの思いの塊であった。それを「こころ」の塊というのかもしれない。朗読はWEBで聞いていただきたい。
第1部
- 桃山の美とこころ
はしがき - はしがき
- 第一章
公家と武家 - 1.秀吉の松丸殿あて消息
- 2.格外の書と破格の書
- 3.三藐院の団欒の歌
- 4.秀吉と三藐院
- 第二章
南蛮物と和物 - 5.唐物と南蛮物
- 6.南蛮服飾
- 7.片身替詩歌文様の能装束
- 8.和物の伝統の継承発展
- 第四章
豪壮と優婉 - 12.唐獅子図屛風
- 13.唐獅子とは
- 14.花下遊楽図屛風
- 第六章
懐古と求新 - 19.異国的なるものへの憧憬
- 20.南蛮画
- 21.伊勢物語絵、源氏物語絵
- 第七章
キリシタンと禅 - 22.キリスト教と禅
- 23.キリシタン美術
- 24.禅の美術
- 第八章
天下人と民衆
(沈静と躍動) - 25.天下人の能と民衆の風流踊
- 26.豊国社臨時祭と祭礼図屛風
- 27.沈静の美、躍動の美
- 第十一章
花紅葉と
冷え枯るる - 36.高雄観楓図と鬼桶水指
- 37.なまめかしき「浦のとまや」―冷えたる風体
- 38.冷え枯るる風体
- 第十二章
遠心と求心 - 39.桃山時代の遠心と求心
- 40.妙喜庵 待庵
- 41.東山大仏殿
- 42.秀吉の遠心と利休の遠心
- 第十三章
秀吉のわびと
利休のわび
北野大茶湯をめぐって - 43.壮大・豪奢への志向とわびへの志向
- 44.秀吉と利休のわびへの志向
- 45.冷えわびとなまわび